「あ、仁王くんだ」
「露草もこれからか」
「うん。ちなみに私たちで締め作業だった」

短期バイトが始まって数日。制服として支給されている服に着替えて更衣室から出ると仁王くんがいた。会うのは今日で3回目だ。大学生同士なのでシフトが被りやすいのだろう。すでに仁王くんも制服に着替えていて、制服は全身がほぼ黒なのでスタイルの良い彼が着るとオシャレさに拍車がかかる。

「マジか。露草はもう慣れたんか?」
「何となくかな。高校のときに飲食やってたしそのときの経験が活きてるかも。仁王くんは何かしてた?」
「中高とテニス部で忙しかったき、ちゃぁんとした接客はこれが初ぜよ。真似するんは得意じゃき社員とか、それこそ露草見て参考に動けばどうにかなる」


私を見て参考になるかはさておき、テニス部……。そういえば初めて会った時、通ってる大学には付属からの持ち上がりだって言っていた気がする。あの学校のテニス部って超強豪校じゃなかったっけ。もしかして仁王くんすごい人説。


「テニスってことは、かなり強いね?」
「後で俺の名前検索してみ。あーー、入り時間来ちょる。行くぜよ」


仁王くんに促され、時計を見ると前の時間からの人達と交代しなくてはならない時間になっていた。これから閉めまで4時間半。頑張ってお賃金稼ぎましょう。


「よっし、今日も頑張ろうね仁王くん」


気合いを入れるために結んでいた髪をもう一度きつくしながら声をかける。
整った横顔が私を一瞥した後、薄く笑った。スタイルだけじゃなくて顔もかっこいいんだよなぁ仁王くん。芸能人みたい。







「ありがとうございましたー!」

最後のお客さんを送り出した閉店時間。まだ仕事はあるけれど、お客さんが居ないことで空気はガラリと変わる。集中してないわけじゃないけれど、完全に仁王くんと私だけなので、片付けや開店前に繋ぐ補充等を行うにも、少し気を楽にして取り組める。
キッチンの人が急用で、ラストオーダーをもって上がってしまったため、最後のお客さんが使用した洗い物だけ仁王くんが片付けている。他のことはホールさんにやらせる訳にはいかないから、と急いでやってから上がってくれたらしい。逆に申し訳ないなぁと思いながらレジで売上精算をこなす。特に違算は出ていないようなのでホッとした。


「洗い物終わったぜよ。補充やるき露草は掃除頼んでええかの」
「ありがとうー。こっちも違算なしで今終わったから、ノート付けたらやるね」


仁王くんが濡れた手を拭きながらキッチンから出てきた。レジが出した売上の紙やら精算の内訳が書いた紙を報告のノートに貼って、今日は特に何も起こらなかったから何も書かなくていいかな、うん。サインだけしてレジ周りを片付ける。
バックヤードから箒を持ってきて、ホールを一掃き。あれ、そういえばちりとり無いな。

「箒取り出したとき見なかったなぁ......?」


念の為掃除用具入れを見てみるけど無い。その周りも確認したけど無い。困ったなゴミをとる事が出来ないぞ。


「ねーー仁王くーーんちりとり見なかったぁ」


バックヤードから、静かなホールに私の間延びした声が響く。テーブルの上のペーパーやメニューの整理をしているであろう彼がそんな声を聞いてやってきた。


「無いんか?」
「この辺サッと見たんだけど......。用具入れにもなかったんだよね」

ホラ、ともう一度扉を開けてみせる。掃除は朝の開店前か閉店後にしか行わないし、今日引き継ぎした時点ではそんな話聞かなかったからあった筈。
仁王くんもその中を覗いたり、周りをキョロキョロとしてから少し上を見たあと、向かい合っている私に1歩近付いた。


「え。何」
「ちょいとすまんの」


私の肩に大きな手が乗ったかと思えば軽く体重がかけられる。ずしり、とした感触と共に聞こえる「よっ」という声。少し背伸びしたのだろう。仁王くんの身体が上に伸びる。その動きを目で追ってしまった。喉仏の張りにどきり、としていると用具入れと天井の隙間から、何かが出てきた。


「あ、」
「何でこんな所にあるんじゃ」


それは紛れもなく私が探していたちりとり。あったのは良かったけれどこんな近くにあっただなんて。なるほど、自分のまつ毛は見えないってやつか。


「仁王くんよく見つけたね、私の身長じゃ見えないわけだよ」


何はともあれ、これでゴミ集めて捨てれば業務内容終了なのでさっさと済ませる。ちりとり探してたから少しだけ時間遅くなっちゃった。仁王くんからキッチンのゴミも受け取ってまとめたゴミを店舗の外にあるゴミ置き場に仕舞う。本日の業務終了。お疲れ様私!と仁王くん!


「終わったぁ 仁王くん帰ろ」
「ん」


ゴミ捨てをしてる間に着替えを済ましたのだろう。既に仁王くんの服は私服へと変わっていた。
私も退勤のチェックを済ませて更衣室に急ぐ。なるべく待たせちゃわないように。


「そういえば自然に一緒に帰る流れになっててごめんね? 早く帰りたかったよね」
「別に急いどらんからかまんよ。夜も遅いき露草1人は危ないじゃろ」


おぉう。ありがたい言葉。こうして駅まで歩くと思い出すのはやっぱり初対面の時だ。
駅まで向かいながら接客について教えたなぁ。あの時は寝ちゃうなんてこの人大丈夫かな、って思ってたけど仁王くんは初経験とは思えないほど動きがよかった。人の真似するのが得意と言っていたのは本当なのだろう。


「仁王くん優しいなぁ。ありがとう」
「のぅ露草。その"仁王くん"てのやめん? 仁王でええぜよ」
「仁王?」


におー。におう。仁王。ずっと仁王くんって呼んでたから少しだけ気恥しい。苗字を呼んでることには変わりないのに、少しだけ距離が近くなった感じがする。くん付けだと何故か他人行儀っぽく聞こえるから、と本人たっての希望なのでこれは飲むしかない。


「仁王」
「おぅ。ええの」
「そんなにかなぁ」
「えぇんじゃよ、それで」


用具入れ前での一件と苗字の呼び捨て。
私が口に馴染ませる為にその音を発するのを聞く仁王、が、何だかたのしそうに見えて、胸の中が少しザワつきはじめるのを笑って誤魔化した。

- 苗字