結局朝食の席では『頼み事』とは何なのか聞けず、「来たらわかる」と言う征十郎に連れられて、赤司邸を訪れていた。
赤司の本邸は東京にある大きなお屋敷だが、京都の別邸も本邸と比べて遜色ないほど立派な門構えだった。
一般的な家庭とは違う厳格な雰囲気すら漂うその家は、征十郎にとっては無意識にプレッシャーを感じる場所なのかもしれない。二人で会う時は専ら外か私の家だったので、私も京都の赤司邸は片手で数える程しか来たことがなかった。
客間である座敷に通され、冷えた麦茶を頂いて数分、静かに開けられた障子の音に顔を上げる。何故だか大荷物を抱えた征十郎に首を傾げた。
「桐箱?着物?」
畳に置かれた桐箱を見て疑問を口にすると、征十郎は至って真面目に、しかしとんでもないことを口にした。
「なまえ、服を脱いでくれないか」
「わかっ……え?」
普段通りの口調と表情に思わず「わかった」と言いかけて、口を噤む。言葉に詰まり落ち着かない私に、言葉が足りなかったと気が付いたのか征十郎は桐箱の蓋を開け、中身が見えるように私を手招いた。
覗き込んで視界に飛び込んできたのは、薄い鴇色の地色に雲取り模様の中に淡藤色を流し込んだ、淡く美しい着物だった。柔らかな綸子地が窓から差し込む光を滑らかに反射し、描かれた繊細な花々の表情を豊かにしている。
息を呑む程美しく繊細なその布に、目を奪われた。まさしく伝統が織り成す芸術品であるそれに対する相応しい賛美の言葉が思い浮かばず、惚けたように目の前の着物に視線を注ぐ。
「素敵な着物だね」
「母さんの、着物なんだ」
穏やかなその声に、着物に釘付けになっていた視線を向ける。少し寂しそうに、けれど優しく微笑む征十郎に泣きそうになった。
「そんな顔をしないでくれ」
泣かせたかったわけじゃないんだと、困ったように私の頬を撫ぜる。
口を開けば涙が零れそうで、泣いてばかりだと心の中で自嘲した。私が泣くことじゃないのに、どうにも血の繋がらない他人の方が現実を受け止められずにいるようだった。
「母さんの部屋から着物が沢山出てきたんだ。仕付けが付いたまま手付かずの物も多くてね、なまえに着て欲しいんだ」
「そんな、征十郎のお父さんに悪いよ」
「父さんも、なまえが着てくれたら母さんも喜ぶからと言っていたよ」
遺された者は思い出に浸る他無いのだと、感情を押し込めるように言う征十郎を、殆ど衝動的に抱き締めていた。
立ち膝をついて隣に座る征十郎の頭を抱えているのに、心情としては幼い子が悲しさを紛らわすようにぬいぐるみを抱きしめるのに似ていると、意識の端で思う。
「暖かいな」
「生きてるからね」
「……そうだな」
ホッと息を吐くような柔らかい声音に、着物の持ち主によく似た赤く少し癖のある髪に回した腕に力を込める。応えるようにブラウスを掴む手に、あの人の代わりになれなくても、少しは安心して居られる存在になれているだろうかと思う。
「……なまえ」
「ごめん、苦しかった?」
「いや、そういう訳では無いんだが……」
珍しく歯切れが悪い口調を不思議に思いながら、征十郎を解放する。俯いている上に片手で顔を覆っているためその表情は見えない。
暫しその体勢で黙り込む征十郎に首を傾げ、けれど何かを考えているならそっとしておこうと、目の前に広げられた他の着物や帯を眺めることにした。
カラフルだけれど洋服とは違った色彩、昔ながらの伝統技法による染の美しさ、長い時を積み重ねて作られた織りの力強さ。
うっとりと時間を忘れるような品々に魅入ってると、いつの間にか考え事を終えたらしい征十郎が背後に周り、後ろから包み込むように私のお腹へと両腕を巻き付けた。
擦り寄ってきたと思えば腕を回したまま少し離れ、私の髪を一房の掬い指に巻いたり、かと思えば髪を梳くように上から下へ流したり、今日の征十郎は随分と気紛れな猫のようだった。
「まだ何か考えているの?」
「そうだな……変化球が通用しないなら直球にすべきだと思うんだが、どうにも難しい」
「……野球でもするの?」
後ろから抱き締められたまま身体を捩り、顔を征十郎へと向ける。
彼は眉尻を下げて困ったように薄く笑ったかと思えば、耳元に顔を寄せて一言、囁くように言った。
「男が女に服を贈る理由、なまえなら分かるだろう?」
耳から伝わった空気の振動が言葉になり、脳でその意味を咀嚼する。人は予測外のことが起こるとこうも情報の処理が遅くなるのかと、頭の片隅にいる冷静な自分が半ば呆れ、半ば感心するように分析していた。
数秒の脳内処理を終えて漸く言葉の意味を理解して咄嗟に征十郎と距離を取ろうとするが、しかしそれを承知の上かガッシリと捕えられており、身動ぎすることすらままならなかった。
何か言おうとしては適切な言葉が思い浮かばず、喉元にすら到達しないまま胸の内に靄を溜めていく。
「……征十郎ってそういう欲無いのかと思ってた」
「……それは聞き捨てならないな」
あまりに翻弄されて、頭が疲れていたのだろう。少し苛立った私は、征十郎に大して最大の悪手を打ってしまった。
低い声に含まれた鋭いナイフのような感情に、ひやりと冷たいものが背筋に走る。
赤司征十郎という人間は、作り物のように完璧な存在だった。あらゆる人が羨む才、家柄は、人間的な欲求をするには満たされ過ぎているように見えた。
けれどそれは当然ながら誤りで、一番近くで彼の人間らしいところに触れていた私がそれを否定することは、彼を否定していることに他ならない。
「生憎僕はそこまで人間が出来ていないんだ。
分からないのなら、身体に教えてやる」
低く、けれどどこか楽しげに見下ろしてくる瞳に、血の気が引くのを感じた。
待ってと言う静止はいとも簡単に流され、征十郎は何処吹く風と言わんばかりに事を進めていく。
額、瞼、頬、と徐々に下がっていく唇の感触に、近過ぎる顔を直視する勇気はなく、固く瞳を閉じて耐えた。身体のラインを確かめるようになぞられ、感じたことのない感覚にぞくりと背が粟立つ。
未知への恐怖と羞恥からどうにか気を紛らわそうと頭をフル回転させた私はある事に気が付き、ブラウスのボタンを外す手を両手で掴み、それ以上の動きを抑制した。
「征十郎待って、今日はダメ」
「なまえ、状況をわかっているのか?今更……」
「今日はその……下着、可愛くないから」
最後の方は殆ど掠れて声にならなかった。それでも征十郎には届いたのか、ピタリと動きが止まる。挙動不審な様子に警戒したが、張り詰めた緊張感の緩みと空気が抜けたように肩に顔を埋める征十郎に、はてと思う。
「せい、」
「……なまえは狡い」
寂しさか悔しさか、それらに類する感情を込めて征十郎は言う。今朝方のやり取りを彷彿させるその言葉は、彼なりの仕返しなのかもしれない。
深い溜息をつき、征十郎は緩慢な動作で離れていく。見上げた顔に浮かんでいたのはしかし、悔いるような懇願にも似た笑みだった。
「すまない、事を急ぐ気は無かったんだ」
頬を撫でる手は、優しい。私は謝るべきなのか、気付かぬふりをすべきなのか、わからなかった。
征十郎の行動に驚いたのは確かだけれど、拒む気は無かったのだ。ただ、思いの外早く訪れたその時に何の準備もしていなかったから、征十郎に幻滅されたくない一心の一言だった。
初めて見る表情に、呆れや嫌悪は含まれていない。それが余計に征十郎の気持ちが見えなくて、困惑した。
「折角の休日だ、約束通り出掛けよう。
着物、着てくれるね?」
取り巻いていた甘ったるい空気を振り払うように、普段の顔に戻った征十郎は立ち上がって言った。
未だ答えを見出せていない私は、誤魔化すように曖昧に笑い頷くことしか出来なかった。
(170709)