じゃがいもと人参を鍋に入れた所で、醤油も味醂もお味噌も無いことに気が付いた私は、暫し逡巡した後に深い溜息と共に再度家を跡にした。
すっかり日も落ちた夜の街は、秋の訪れもそこそこに足早に冬が顔を覗かせているような寒さだった。
帰りに思い出せば近くのスーパーも空いていたのに、この時間になると少し足を伸ばさなければならない。マフラーを口元まで上げて、小走りに静かな住宅街を進む。
遅くまでやっている大型スーパーは、仕事帰りのサラリーマンやOLでそこそこの賑わいを見せていた。
普段来ることのない時間帯でこうも景色が変わるのかと、落ち着かない気持ちでカゴを手に取った時だった。
「みょうじ?」
突然後ろから聞こえた声に、自分のことだと気が付くのに数拍遅れた。再度呼ばれた名前に振り返り、視界に入った人物に目を瞬く。
「黛先輩?」
「お前こんな時間に何やってんだよ」
「肉じゃが作ってる途中で醤油ないのに気が付いて……」
「そんなん家族に買いに行かせりゃいいだろ」
「あぁ、私一人暮らしなんです」
「……は?」
怪訝な顔をする黛先輩に、そう言えば先輩とプライベートの話をするのは初めてだと心の隅で思った。
カゴを持ち直して顔を伺うと、黛先輩は小さな溜息と共に首を縦に振る。気乗りはしないが乗ってやると言う雰囲気に苦笑しながらも、肯定されたことにホッと胸をなで下ろした。
部活の先輩とスーパーを歩くと言うのも不思議な心地だがお互い目的の物があった方が妙な気不味さもなく、いつもより話しやすかった。
「……とまぁ、そんな感じで両親は海外赴任中で私は学校もあるので一人暮らしなんです」
「赤司も大概だが、お前も相当だな」
「どういう意味ですか、それ」
「そのまんまの意味だよ」
ひんやりとした冷気を放つ棚から牛乳パックを手に取り、抑揚なく言い放つ。腑に落ちない点は山ほどあるが、感情のままに不満を露わにするほど親しい仲でもない。
行き場のない尖った気持ちを、黛先輩を自分の目当ての調味料コーナーへと誘導することで誤魔化した。自然な足取りでスーパーを進む私に何も言わずに着いてくる辺り、見ていないようで人の動きをよく見ているのだと、意外な思いだった。ほんの数ヶ月前に教えられたばかりだと言うのに、こうして日常の中で自然に観察眼が生かされているのを見ると、彼もまた才能ある選手なのだと敬意を抱かざるを得ない。
「それはそうと、黛先輩こそこんな時間にどうしたんですか?」
「本屋寄ったついでに買い物頼まれたんだよ」
「めんどくせぇ」と頭をかく先輩の、普段見ることのない日常の姿にほんの少し親しみが湧く。思わず零れた笑みに、先輩は読めない表情を浮かべて私を見下ろした。
初めこそ黒子くんに似た雰囲気に一方的に親近感を覚えていたが、黛千尋と言う人物はどうにも黒子くんとは対照的な中身であると思う。
存在感の薄さは紛うことなき黒子くんのそれなのだが、黛先輩は隠さない我を持っていた。感情の揺れを表に出さないだけで、内に秘めた感情は決して穏やかなものばかりではない。
それでも、征十郎に乗せられたとは言え洛山の影になる彼は、やはり自分よりと年上の大人なのだと思った。
***
「それ寄越せ」
「はい?」
お互いに目的の物を買いスーパーを出ると、自然に別れるものだと思っていたのは私だけだったようだ。相変わらず貼り付けたような無表情のまま、それが当然の流れであるように黛先輩は私の持つ荷物を攫い、「お前の家こっちか?」と宣ったのだから、「はぁ」と気の抜けた返事を返す他なかった。
どうやら送ってくれるらしいことだけはわかったものの、遅い時間に先輩の手を煩わせるわけにもいかず、送る送らないの押し問答が始まったのが5分前のことだった。
「本当にいいですってば、」
「別に家まで入りゃしねぇよ」
「そういう事ではなくてですね」
案外しつこい先輩に気を遣わせて申し訳ない気持ちと、意外な親切心に困惑した。袋を引っ張り合って譲らない私達を、疲れた顔をした社会人勢が一瞥し、囃し立てる声や舌打ちの音が方々から聞こえてくる。
焦れた先輩は遂に苛ついた様子で頭を掻くと、袋を掴む私の手ごと掴んで歩き始めてしまった。
「こんな時間に女一人で歩いて帰らせられるかよ」
無表情の仮面を取り払って怒る先輩はとても人間らしくて、素の姿を見せてくれたことに今まで感じていた壁が取り除かれたような気がした。純粋に心配してくれた事も相まって、胸が暖かな気持ちで満たされていく。
自然と零れた笑みに黛先輩の訝しげな視線が刺さるが、喉の奥のつっかえが取れたようにスッキリした心では気にならなかった。
「じゃあ、お言葉に甘えてお願いします」
「最初から甘えとけ」
素っ気ない態度の裏に見えた不器用な気遣いが今は可愛いとすら思うのだから、私は単純な人間だ。
好意に甘えることにしたとは言え、せめて荷物は自分で持とうと再度押し問答した結果、比較的軽い黛先輩の買い物袋を私が持つことに落ち着いたところで漸く帰路につく。先輩は意外と頑固だ。
「私の中の黛先輩像が大規模更新された気がします」
「お前の中のオレは随分な人でなしだったようだな」
「人でなしと言うか、他人に対する興味は極端に薄いと思ってました」
「……今日は随分本音で喋ってくれるな」
「今までが他人行儀過ぎたんですよ」
話始めるとポンポンと返される言葉のテンポの良さに妙な心地良さを感じ、自然体で話すことが出来た。取り留めもないことを話しながら、ふと見上げた先の外灯に照らされ浮かぶ小さな笑みに、嬉しくなる。
普段よりいくらか柔らかくなった雰囲気で歩けば、元より長くはない道程はあっという間だった。
マンションのエントランスで荷物を交換し、お礼を言って背を向けた時、「なぁ」と控えめな、けれど引き留めるには十分な意思が篭った声に再度振り返る。
「お前も赤司も、他の奴好きになったこととかないのか?」
人間突拍子もないことを言われると、フリーズするらしい。瞬きすることも忘れて黛先輩を凝視する。ぐるぐると意味を成さない文字の羅列が、脳内で言葉となって反響した。自分なりに噛み砕いて解釈して、けれど黛先輩がその問い掛けをした理由はさっぱり思いつかない。
「……考えたことないですね」
漸く出た答えは、簡単なものだった。言葉に込められた意味がわからない以上、表面上の答えを返す他なかったのだ。
けれどそれは求めている答えとして充分だったのか、黛先輩は気にした様子もなく「そうか」と呟く。
不意に冬の匂いを乗せた風が髪を撫ぜた。少し明るくなった足元に顔を上げると、先程まで空を覆っていた雲が風に流され、少し欠けた月が顔を覗かせている。
「星が綺麗だな」
「……そうですね?」
同じように空を見上げた黛先輩は、顔を空へ向けたまま言った。確かに夏よりも空気が澄んだ空は、星がよく見える。けれど今日は月明かりで周囲の星は霞んでしまい、特別感想を漏らすほど星の輝きはなかった。
それでも無いとは言えない星を、綺麗だと思ったのかもしれない。少し間が空いて疑問符を返した私を、しかし先輩は柔らかく笑って見せた。
「早く寝ろよ」とすぐに踵を返した先輩の背にお礼と就寝の挨拶を投げ掛ける。ひらりと振られた手を見送った私は、彼の顔に浮かぶほんの少しの寂しさに気が付くことはなかった。
星が綺麗ですね=あなたは私の想いを知らないでしょうね
月が綺麗ですねは知っていても星が綺麗ですねは知らなかった主人公と、意味が伝わっても伝わらなくてもどちらでも良いけど気持ちを吐き出したかった黛先輩
(170715)