試合前の落ち着かない会場で人混みの間を縫うように歩いていると、突然首元に温い何かが押し付けられた。反射的に首元を手で押さえて振り返ると、何度も懐かしく想っていた人物が視界を占領し、驚きに目を丸くする。

「……黒子くん!」
「お久しぶりです、みょうじ先輩」

ゆるりと笑う水色の彼に、先程の衝撃は霧散した。わあと口から零れた感嘆と、ソワソワと浮き足立つ感覚が、自分が認識している以上に喜びを表していた。
穏やかに微笑む黒子くんが「どうぞ」と差し出した小さなペットボトルを受け取る。冬仕様のミルクティーのパッケージを見て、自然と頬が緩んだ。
じんわり優しく広がる温かな甘みは、彼の緩やかな気遣いに似ていた。何回か前の冬の日、黒子くん本人にそれを伝えたことがあった。当然のように不思議な顔をした彼が、偶然かもしれないけれどこうして選んでくれたものがソレだったことに、言い様のない安堵感が胸にじんわりと広がる。

「本当、久しぶりね」
「御変わりないようで何よりです」

黒子くんも緑間くん同様、夏に会えなかった為に一年半ぶりの再会だった。時折メールや手紙のやり取りをしていたが、直接会うとなると何から話そうか言葉に迷う。ペットボトルから視線を上げて顔を伺うと、彼もまた同じようだった。ぱちりと目が合い、どちらからもとなく笑う。

「誠凛の試合、全部観てるよ。凄く良いチームね」
「ありがとうございます。やっと、ここまで来ました」

ここまで来た、という言葉に、黄瀬くんと青峰くんの「負けた」と言う言葉が思い起こされる。意味は真逆なのに、彼らを取り巻く薄暗い想いが起因しているのだろう。
何か言おうとして、適当な言葉が浮かばずに口を噤む。それ程に彼らの因縁は根深く互いの心に絡みついていた。大事な所でいつも逃げていた私の言葉なんて、何を言っても軽く聞こえてしまいそうで、知らず顔が歪んだ。

「……みょうじ先輩は、もう少し自己評価を上げてもいいと思います」
「……?」

苦笑いする黒子くんに、首を傾げる。呆れを含んだ声音に戸惑っていると、黒子くんはゆっくりと口を開いた。彼はいつだって思慮深く、丁寧に言葉を操る。ザワつく周囲の音で聞き逃さないよう、全神経を集中させて、彼の言葉を待った。

「変わらないことで救われる人だっているんです。僕が、そうだったように」
「黒子くん……」
「皆が変わっていく中でみょうじ先輩は変わらずに接してくれて、とても、心強かったです」

思いもよらぬ言葉に、目を瞬かせる。言葉を返すのも忘れて呆ける私に、黒子くんは穏やかに笑んだ。
──変わっていく彼らをただ見ていることしか出来ず、たった一人の大切な幼馴染すら支えられなかった。選手として同じ立場にも立てない人間ですら、善し悪しのわからない変わり様に戸惑っていたのに、当事者であった彼にはどれほど辛いことだったろう。
皆始まりは一緒だった。「バスケが好き」だと、ただそれだけだったのに。大好きなバスケを楽しいとすら感じなくなって、他の選手を見下して好きなバスケで傷つけてしまう程に荒んでしまった彼らに、目の前の彼はどれだけ絶望したのだろう。

「彼らは変わりました。それが良いことなのか悪いことなのか、僕にはわかりません。
でも、彼らから笑顔が消えたのは、確かです」
「……うん」
「僕に彼らを否定することは出来ない。でも、僕のバスケを認めて欲しいと思ったから、ここまで来ました。
……折れそうになった時に、貴方が変わらずに彼らを、僕を否定せずに居てくれたから、ここまで来れたんです」

優しく穏やかな、けれど真っ直ぐな芯の通った瞳に射抜かれ、じわりと心の奥が暖かくなる。
あぁ、彼は諦めなかったんだ。自分を曲げずに、ひたむきに努力してきたんだ。その支えに自分が入っていただなんて、これ以上の幸せがあるだろうか。
滲む視界の奥に柔らかな笑みが浮かんで、ついに頬に涙が伝う。ずっと抱えてきたものを溶かすようにとめどなく溢れるそれは、変化の舞台であった場所の足元を濡らした。

「……ありがとう黒子くん」
「お礼を言うのはこちらの方です」

差し出されたハンカチで目を抑え、深く息を吸う。
口を開けば嗚咽が零れそうで、何度か深呼吸を繰り返す。何も言わずに傍にいてくれる黒子くんの顔は見えないけれど、きっと困ったように笑っているんだろう。

「貴女は少し赤司くん……いえ、僕達を甘やかし過ぎです」
「……そうかな?」
「ええ、とても」

神妙な顔で少し責めるような声音に、たじろいでしまう。
征十郎に対して甘いのは自覚があったが、他の人に対しても思われていたとは。「無自覚だったんですね」と追い討ちのように言われては、否定することが出来なかった。

「そうね、皆可愛い後輩だから、つい甘やかしてたのかも」
「……赤司くんが過保護になるのも納得です」

心底気の毒そうな顔をするものだから、二の句が告げなくなってしまう。何だか今日は黒子くんにやり込められてばかりだ。

「やっぱり傍から見ていて過保護だと思う?」
「そうですね、1歩引いて見るくらいには」
「……そうだよねぇ」
「もしかして、まだ付き合ってないんですか?」

まさか黒子くんから言われるとは想像もしていなかったから、思わず固まってしまう。
周囲から幾度となく言われた台詞は、近しい人ほど口に出さないものだった。だからこそ、異性であり可愛い後輩である黒子くんにストレートに言われると気恥ずかしく、顔に熱が集まる。人の機微に聡い彼のことだ、この反応だけで凡そのことは察したのだろう。無表情ながら僅かに呆れを含んだ瞳を見たら、観念する他ない。

「お互い気持ちは同じだって思うんだけどね、確かめるのが怖いんだ」

どれほど態度で示されても、口ほどにものを言う瞳を見ても、結局言葉がないと不安なのだ。
もし私が征十郎を想う気持ちと、征十郎が私に抱く好意が違うものだったら?ただ幼馴染として近くにいたから、雛鳥が初めて見たものを親だと思うようなそれに近い気持ちだったら?
絶対にないとは言えない、蓋をしてきた疑問は、口に出せば出すほど不安を増幅させた。万が一にでも道を違えてしまうことを恐れて、私も征十郎に対して自分の想いを伝えてこなかった。そして彼もまた、直接的な言葉を私にかけることはなかった。だから、半ば依存に近い関係に名前を付けることが出来ずにいるのだ。

「僕は変わっていく彼らを見て、戸惑いました」

静かに発された声は、決して大きなものではなかった。けれど、真っ直ぐに私へと向けられた言葉は、不思議なほど耳に響いた。

「有り体に言えば仲違いしていた僕らも、お互いの気持ちをぶつけることで溝を埋めることが出来ました。
溝を埋めずとも、ただの同級生と言う関係を続けることは出来たけれど、僕はそれが嫌だった」
「……うん」
「大丈夫ですよ、貴女が思うほど変わることは恐れることではありません。変わらずにいることに固執して苦い想いを我慢する方が、きっといつか後悔する日が来ると思います」

いつか後悔する日が来る。痛いほど刺さる現実的な言葉だった。後悔はしたくない。蓋をしてきた想いが、顔を覗かせる。
変わらず傍にいるために、後悔しないために、今までと同じではいられない。
変わってしまった関係を受け入れた上で、折れずに前を進んできた彼の言葉は、とても強く、眩しい。今もまさに変化を恐れずに真っ直ぐと未来を見据える瞳に、不思議と心の内の靄が晴れるような爽やかさを感じた。

「明日、僕にとっても変化の日になると思います。絶対に勝ちます」
「あはは、洛山のマネージャーとしては聞き捨てならないかな」
「絶対、負けませんから」
「……うん、うちも負けない。勝って、でもきっと、何かが変わる試合になると思ってる」
「お互い、良い試合にしましょう」

選手でもない私に言う言葉じゃないのに。そう言えば、きっと彼は顔を顰めて怒るのだろう。少し照れくさい気持ちを抱きながら、突き出された拳にこつりと自分の拳を合わせた。




(190209)