去年のことだった。高校に進学して、新しい学校、新しい土地に漸く少し慣れてきた頃、それは突然訪れた。
「こんやく?」
言われた言葉を鸚鵡返しすると、爽やかな笑顔で両親は頷く。
両親の都合で京都へ越して来たと言うのに、僅か1ヶ月足らずで海外へ異動した彼らは、慌ただしい大移動の合間にとんでもない話を我が子の元へ運んできた。凡そ高校生では聞き慣れない言葉を、頭の中で反芻する。こんやく、こんにゃく……婚約。
点と点が繋がるように、漸く言葉の意味を解して、驚きと気恥しさで顔に熱が集まる。
「婚約って……誰と誰が?」
混乱する頭を冷やそうと、まず一番大事なことを尋ねる。話の流れ上、誰の内1人は間違いなく私自身なのだが、思わず聞いてしまった辺り冷静では無かったのだと思う。落ち着かない気持ちを鎮めようと麦茶の入ったグラスを手に取る。夏の訪れを感じる冷えたそれを飲みながらも、顔を見合わせる両親から目が離せなかった。
──────両親の仕事柄、一人娘の私に許嫁の話が舞い込むのは初めてでは無かったらしい。まだ年端もいかぬ幼い頃から、何度かそう言った話はあった。けれど幸い父も母も、我が子の意志を優先しようと、陰ながら全て断っていたそうだ。
ではそれが何故今回ばかりはその場で断らず、私へ話を持ちかけたのか。断れない相手なのだろうか。聞けば聞くほど血の気が引く思いだった。両親にはとても感謝している。出来る望みは叶えたい。けれど、結婚は流石に二つ返事で応えられない……悶々と悩む私に、母は軽やかな声音でコンヤクシャの名を告げた。
「あなたの婚約相手は、赤司征十郎くんよ」
***
形式的な会食を終えて「あとはお若いお二人に」と昨今ドラマでも見ない気遣いを頂き、漸く征十郎と二人きりの時間が訪れた。
両親から婚約の話を聞いてから今日まで3ヶ月ほど。その間メールや電話で近況報告はしたものの、婚約については触れてこなかった。母親同士が友人であった為に、幼い頃から「征十郎となまえが結婚すればいいね」なんて冗談めかして言われたことはあった。しかし、まさか今頃になって征十郎のお父さんから正式な申し出が来るなんて、夢にも思わなかった。
赤司家の格を考えれば許嫁の1人や2人、おかしくない話だ。寧ろ幼少時から見知った幼馴染を選んだのは、厳しい父親なりの情なのかもしれない。
それでも、私と征十郎は世間一般で言う「お付き合い」をしている仲ではなかった。卒業式のあの日、確かに征十郎の想いを感じ取った。それまでも何度か感じた変化は、きっと自惚れではないのだと思う。けれどハッキリと言葉で気持ちを伝えられたわけではなく、私も征十郎に抱く気持ちに名前を付けずにいた。少なからずお互いに好意を抱いているとはいえ、果たして恋人という過程を飛ばして婚約者だなんて、どうしてよいのかわからない。
「征十郎は、本当に私でいいの?」
「なまえじゃないと駄目なんだよ」
怖い程に綺麗に笑う幼馴染を、その美しい瞳を、正面から見ることは出来なかった。上手く言葉に出来ないもどかしさと、底知れぬ恐怖に似た何かを誤魔化すように「そっか」と短く返す。
それに気を悪くすること無く、征十郎は壊れ物にでも触るかのように優しく頬に手を寄せる。ひんやりと冷えた感触に顔を上げると、頬に触れる冷たい手とは真逆の熱の篭った視線に目が吸い寄せられてしまった。金縛りにでもあったかのようにピタリと、身体が固まった。閉じられた瞳が、端正な顔が近づいてくるのが、スローモーションのようだった。
「例え断られても、今更手放すつもりはない」
そう言って離すまいと抱きしめる腕は縋るようで、何でもそつなくこなす征十郎らしくないと思った。
「好きだ」と伝えられたら、普通の恋人同士のようになれたのかもしれない。好きかと尋ねれば、きっと望む答えが返ってきたに違いない。けれど今までの心地よい「幼馴染」という関係が変わってしまうことを恐れた私はそれを聞くことはなかった。それは、逃がさぬように私を腕に閉じ込める様が愛情以上に執着心が強くて、自分の抱く好意と、彼のそれが同じものだと確信を得られなかったからだ。
それでも、私だって今更離れることができないくらい、大事に想っていたのだ。それが例え違う感情でも、隣にいることができるのなら、それでいい。応えるように背に回した腕に力を籠めれば、安心したように笑うから。これで間違ってないんだと、そう思っていた。
***
決勝戦当日、抱いた決意と昂る感情に速まる鼓動を鎮めようと会場の外へ出た。年の瀬の冷たい空気が、今ばかりは心地好い。制服にパーカーを羽織っただけではすぐに冷えるから、少しだけ。行き交う人の中に紛れて、暫し一人の世界に没頭した。
いよいよ最後の試合。選手出ない私にできることは少ないけれど、変化を祈って臨む試合だ。変化を恐れることはないと、後押しをしてもらった今、胸に抱くのは、ずっと温めてきた想いだった。
「なまえ、ここに居たのか」
ふわりと首を覆う暖かな生地に、ゆっくりと顔を上げる。見慣れた姿に口元を緩めると、応えるように征十郎も表情を和らげた。
ああ、こうして試合以外の場であれば昔と変わらない、優しさに何度心を揺らされただろう。きゅうと胸が締め付けられるような、甘い感覚。首にかけられたマフラーは、不思議と安心する香りがするようだった。相性の良い人は、その匂いまで心地よいと感じるらしい。もしその論説が正しいのならば、私と征十郎は相性が良いのだろうかと、そんなことを考える。そうだったら良いな、なんて考える時点で、答えは出ていた。
「なまえ、風邪をひくよ。早く、」
「ねぇ、征十郎」
マフラーを握り締めて、彼の人と向き合う。言葉を遮って名前を呼ばれた彼のきょとりとした顔は、普段の冷静で非情なまでの冷たさとは真逆の、年相応の少年のものだった。
愛しいと思った。変わってしまった彼と、変わる前の彼。どちらも欠けてはならない、全て含めて”赤司征十郎”その人なのだ。征十郎が周囲のプレッシャーに耐えるためにいるのなら、そのプレッシャーを和らげる存在になろうと、いつかの約束を思い出す。
「好きだよ、征十郎」
どうやって想いを伝えようとあれこれ考えていたのに、口から出たのはシンプルにも程がある、ありきたりの言葉だった。けれどたった4文字に過ぎない短い音は、征十郎を驚かせるのに十分だったらしい。10年以上そばに居ても珍しいと思う、目を見開いて驚く様にほんの少しの優越感を抱く。
「何にも流されずに真っ直ぐ前を向く姿勢も、努力を惜しまない所も、全部。大好きだよ」
思えば、言葉に出したのは初めてかもしれない。心の内に暖めてきた気持ちは、1つ発すると自然と言葉が重なって口から溢れた。流石の征十郎も、普段の全てを見透かすような瞳はなく、戸惑いにその双眸を揺らしていた。
「なまえ、」
「ごめんね、大事な試合の前にこんなこと言って。
どうしても、貴方に伝えたかったから」
決勝戦で、何かがあると予知していた訳では無い。ただ、黒子くんの言う通り、後悔する気がしたから。
答えが聞きたかったわけではない。今すぐ関係に白黒ハッキリした名前を付けたいわけでもなかった。ただ、"征十郎"に、伝えたかったのだ。
「決勝戦、頑張ろうね」
一方的な告白を、征十郎は黙って聞いてくれた。今はそれだけでいい。
くるりと試合会場へ向き直り、歩き始める。何も言わずに隣を歩いてくれる存在に、内心安堵の息を漏らした。大事な試合前の選手に、精神的な負荷をかけてしまっただろうかと、それだけが気掛かりだった。きっと、それを伝えたところで彼はなんでもないように笑うのだろうけれど。
建物の中に足を踏み入れる直前、不意に歩速を緩めた征十郎を見遣る。絡まった視線の熱さに、胸が跳ねた。
「試合の後、話がしたい」
私にしか聞こえない程度の声。言葉少なにそれだけ伝えると、征十郎は何時ものように前だけを見据える。
きっと黒子くんと話す前の私であれば、告白したことに後悔していた。でも今は、自分の気持ちを信じられる。長く内に秘めた気持ちを打ち明けたことで、不思議とスッキリとした気持ちだった。私の勝手な告白は終わった。今見据えるべきは、大切な約束である試合だ。
(190507)