「誰だお前」
黛先輩がそう言った瞬間、征十郎の雰囲気が変わったのがわかった。
込み上げる感情と涙が耐える間もなく溢れる。
"征くん"が何かを言い、監督が頷くのが歪む視界から見えた。俯いたり顔を覆わず涙を零す私を、玲央ちゃん達は驚き心配してくれる。口を開けば嗚咽が洩れそうで首を横に振ることで「大丈夫」だと伝え、引き攣った笑顔でコートへ送り出した。試合中の選手に心配されるなんてマネージャー失格だ。
涙を止めようと目元を擦っていると、自分のものとは違う手がそれを阻む。「擦ると目に傷がつく」と困ったように笑う人に、ますます涙が溢れた。
「オレはなまえを泣かせてばかりだな」
「っ……そんな、こと」
「"皆で"勝って戻ってくる。もう少しだけ待っていてくれ」
優しく、けれど力強い意志の籠った掌が頭を撫でる。情けないくらい感情のブレーキが効かない。けれど、見届けなければ。ぐっと涙を飲み込み、一瞬の動きも見逃さないようにコートを見据えた。
***
吸い込んだ空気が、まだ冷めやらぬ火照った身体に心地良い。都心のビル群から少し離れた住宅街の合間から臨む星の煌めきと、年の瀬の静かな澄んだ雰囲気が、何処と無く寂寥感を漂わせていた。
「なまえ」
「持っていてくれてありがとう」
手渡されたカップから上る湯気が、冷えた空気にゆらゆらと揺らめいていた。近くのカフェでテイクアウトしたミルクティーの熱を手に、知らず笑みが零れる。
「何だか懐かしいね」
「ああ、まだ残っていたんだな」
幼い頃、2人で遊んだ公園。ブランコと滑り台とベンチだけの、何の変哲もない公園だった。けれど、私たちにとっては特別な場所。
まだ征くんのお母さんも元気だった頃、幼稚園の帰りに時々寄っては母達が井戸端会議をしている横で、2人でよく遊んだのだった。少なからず家に縛られていた征くんと自由に遊べる数少ない場所は、成長と共に訪れることもなくなっていた。周辺は開発が進み、あの頃はなかった大きなマンションや家々が建ち並んでいたので、この公園の存在もいつの間にか記憶の片隅に追いやられていた。
ここへ来ようと、どちらかが言ったわけではなかった。
閉会式を終えてから目元を赤くした仲間たちと別れた後、私達は実家へと向かった。向かいながら、どちらからともなく寄り道を提案して、行き着いた先がここだった。
「ウィンターカップ、お疲れ様」
「ありがとう、なまえ。格好悪いところを見せたね」
そう言って笑う征くんの目元は、少し赤くなっている。それが、堪らなく愛おしかった。
「征くんが格好悪かったことなんか、1度もないよ」
まだ暖かいカップを見つめながら、零れた言葉。征くんに言うというよりも、自分が噛み締めるための言葉だった。
格好悪い姿なんて、出会ってから今まで1度も見たことがない。何でも完璧にこなす『非の打ち所がない人間』。"赤司征十郎"という人物を知る誰もが口を揃えて言う言葉は、何一つ間違っていない。
「才能にも環境にも恵まれてる。それでも、努力を惜しまない姿は、ずっと、格好良いよ」
負けることが格好悪いことではない。勝つことが全てではない。世の中全てが黒か白かの両極端ではないのだと、私は思う。それが良いか悪いかは人それぞれの価値観かもしれない。それでも、"赤司征十郎"を傍で見てきた私には、誰よりも努力を怠らない姿も、余裕を無くしてなおコートに立つ姿も、初めての敗北に涙を零す姿も、全てが格好良く、愛おしく感じられたのだ。
好きなんだ。堪らなく、誰よりも。恋の欲目とか、痘痕も笑窪とか、昔からの言葉にもあるように、好きな人はどんな姿でも好ましい。
後輩に背中を押され、積年の想いを打ち明けたおかげか、驚く程に気持ちはスッキリしていた。ずっと心の奥底で眠っていた想いが、わからなくて燻っていた蟠りが、明快な言葉として伝えられる。
「大好きだよ、征くん。どんなあなたでも、私はあなたが好き」
息を飲む征くんの顔を見つめながら、頭を膨大な情報がグルグルと巡った。
「最初のきっかけはなんだったかな。きっと小さい変化の積み重ねで、気が付いた時には遅かったんだと思う。
征くんだけじゃなくて、青峰くん達も皆変わっていって、でもそれは悪いことじゃないと思ってたし、今もそう思ってる。
私には皆みたいに突出した才能があるわけじゃないから、できない人の気持ちの方がわかるよ。どんなに頑張っても、才能には勝てないんじゃないかって、思う。
それでも、皆を傍で見てたからわかるんだ。皆だって人一倍バスケが好きで、ずっと努力してきたこと。特に征くんは小さい頃からバスケ以外も頑張ってきたのを見てたから、苦しんでる時に何も出来なかったのがずっと心残りだった」
ちょっとした変化、気が付いていたのに蓋をしてきたこと。纏まらない思考を少しずつ話し始める。征くんは、ただ黙って聞いてくれた。
「変化に気が付いたなら、監督やコーチに言えばよかった。ううん、きっとコーチ達も気がついてた。特別扱いしない、それだけで良かったのに、そんな進言すら出来なかった。
変わっていくことは悪いことじゃないのに、怖かったんだ。悪い方に変わってしまうんじゃ、今までの心地よい関係がなくなってしまうんじゃないかって。征くんとのこともそう。征十郎はきっと、私が見えないふりをしていた部分。どんな征くんだって大切な人に変わりないのに、完璧を求める征十郎に、失望されるのが怖かったんだと思う。
それで、何も変えられずに逃げたの。臆病で、自分勝手で、ごめんね」
街灯に照らされぼんやりとした色を浮かべる遊具を見つめながら、言葉を締める。何を伝えたかったのか、まとまらない思考の断片。伝わっただろうか、と言うよりもただ、溢れる胸の内を零したかっただけなのかもしれない。
不意に手を引かれ、持っていた紙コップが地面に当たる鈍い音が聞こえた。コート越しに伝わる温もりに、抱き寄せられたのだと数秒遅れて気が付き、顔に熱が集まる。
「なまえは逃げてなんかいないよ」
「─ッでも、」
「オレ…いや、オレたちが、"変わらない"なまえにどれだけ救われてたか、知らないだろう」
黒子くんと同じ言葉に、思わず息を飲んだ。
「変わっていく周りが怖かった。置いていかれることが怖かった。周りが変わるなら、自分も変わらなければと、無意識に思い詰めていたんだと思う。
自分の正しさを押し付けて、酷いこともした。それは紛れもない事実だ。黒子のように離れていった人もいる。
それでもなまえは、オレも、黒子も、誰も否定せずに受け入れてくれた。それだけで十分だったんだよ」
初めて聞く征くんの胸の内に、ボロボロと涙をこぼす。今日は泣いてばかりだ。あやす様に背中をさする優しい手の平が、涙を止めさせてくれない。
「なまえの優しさに甘えて、自分の事ばかりだった。背負い込ませてしまって、すまない。
……なまえに先に言われてしまったけど、なまえが好きだ。きっと、なまえが思っているより前から、ずっと」
あぁ、好きという二文字はなんて甘美な響きなんだろう。好きな人の口から出る言葉の甘さに、胸が熱く鼓動を打つ。
征くんの肩口に埋めていた顔を上げると、幼い頃からずっと隣にいる男の子が、ほんの少し泣きそうな顔をしていた。どちらからともなく顔を傾けて、キスをする。暫く触れるだけのキスを繰り返し、名残惜しく離れる変わりに、背中に回った腕に力が籠った。それに応えるように、征くんのコートの背をぎゅっと掴み返す。
「お疲れ様、征十郎。
それから……おかえり、征くん」
「……あぁ、ただいま、なまえ」
(210303)