少し昔話をしようと思う。
幼い私は好奇心旺盛で、色々なことに興味を示した。水泳、バレエ、ピアノ、華道、茶道、幼児学習塾など、数え切れないほどの習い事をし、幸いそれなりに立派な家柄な両親は勧めるまでもなく積極的に学ぶ娘に喜び、やりたいと言えば何でもやらせてくれたのだ。
無垢で無知な真っ白い子供は学ぶもの全てを吸収し、知識欲が満たされることを楽しんだ。
そんな私には、幼馴染の男の子がいた。一つ下のその子は、母親同士が親友同士らしい。物心つく前から両家を行き来し、また日本でも有数の名家の跡取りである彼も習い事は多く、そのいくつかは同じ師を仰いだ。自然と傍にいる時間が増え、気が付けばお互いに隣にいることが当たり前になっていった。
「なまえ、なまえはぼくとけっこんするんだよね?」
「どうしたの征くん」
「ようちえんで、女の子は年上の男がすきだってきいた。でもなまえはぼくとけっこんするよね?」
「うーん、征くんが大人になっても年上が嫌じゃなかったらね」
「年上だからじゃない、なまえだからほしいんだよ」
子供の一歳差とは大きいもので、年の割にどこか大人びた雰囲気の征くんも、私から見たら背伸びしているだけの幼い子供だった。自分だって、充分子供だったのに、慕ってくれる彼に対して「お姉さん」のような気分だったのだと思う。
だから、彼から向けられる好意は「家族愛」だと思ってきた。年を重ねる事にその美しい宝石に宿す感情に熱を感じても、彼が直接的な言葉を言わないのをいい事に、私たちの間にあるのは家族のような絆だと、愚かにもそう信じていた。
望んで習い事をする私と違い、征くんは名家の後継として本人の意思に関係なくあらゆる教養を身に付ける為に殆ど自由時間がなかった。幸か不幸かそれを全てこなせる器量を持って生まれた彼を支えたのは、他ならぬ彼の母親だった。
私のことも娘のように可愛がってくれた彼女は厳しい征くんの父親とは正反対に、おっとりとして優しく、花が咲くように笑った。身体が弱く家からあまり出ない彼女は、時間を見つけては私を家へ招き、他愛もない話を楽しんだ。
彼女は美しい人だった。征くんに受け継がれた赤い髪は絹糸のように滑らかで、白く透明な肌によく映える。子供ながらに息を呑む程、絵画か彫刻のような洗練された美しさだと思った。
美術館に展示される芸術品が湿度や温度、照明の当たり具合を細かに調整しないとその美しさが損なわれてしまうように、彼女の美しさもまた、彼女自身の生の薄さとそれに伴う儚さがより一層美を際立たせていたように感じた。
「貴方の前では素直に甘えられるみたいだから、征十郎のことよろしくね」
私の代わりに。そう言って微笑む彼女はこの世のものとは思えないほど美しかった。死の直前、全てを受け入れ、静かに終わりを待つ強さが眩しかった。この人の代わりになんてなれない。そう思うと同時に、この人のようになりたいとも思った。だから私は、どこか浮世離れした真っ白な部屋で泣きながら何度も頷いた。
それから幾日も経たない、私が小学校六年生、征くんが五年生のある日、彼女は元より白い肌をさらに白くし、穏やかな顔のまま帰らぬ人となった。
征くんは泣いていなかった。ただぼんやりと遠くを見つめる瞳に光はなく、それが何よりも私の胸を抉った。泣かないのではなく、泣けないのだと思った。幼い身体に、なんと重い枷がまとわりついているのだろう。
「征くん」
「なまえ」
こちらを見ているのに、目が合わない。紅い宝石のように澄んだ瞳は逝ってしまった最愛の人を探している。絶望の淵に立つその姿を、見ていられなかった。
貴女の代わりになんてなれませんと、心の中で叫ぶ。もう二度と会えない優しく綺麗な人を想い、その人によく似た目の前の少年を抱き締めた。
「征くん、今ここには私以外誰もいないよ」
だから、泣いて。最後は言葉にならなかった。目から溢れる涙と、こみ上げる嗚咽。自分と変わらない、いつもより小さく見える身体に縋り付いて私は泣いた。泣きながら、誰よりも強くて優しい幼馴染に泣いてほしいと懇願する。なんて自分勝手なんだろう。死は幼い私の理性をいとも簡単にショートさせていた。
ゆっくりと背中に回された手に、征くんに回す手の力を強める。小さな嗚咽は次第に大きくなり、そして二人で身体中の水分が枯れるまで泣き続けた。
小さな箱庭で白砂に染み込む雨粒のように、突然訪れた死の悲しみは幼い二人の胸の奥にまで侵食していった。
彼の涙を見たのは、それが最後だった。
その日を境に征くんの習い事はさらに厳しくなり、私が一年早く中学に進学したことも相まって物心ついてからは初めて会えない期間が続いた。
だから彼もまた同じ中学に進学し、再び日常を共にするようになった時に初めて彼に対する違和感を覚えたのだ。
それでも中学で征くんのように才能ある"キセキ"に出会い、年相応に笑う彼だけを見て、その影に燻るものに蓋をしてしまった。
小さな変化だった。周りが気が付かないほど、些細な違和感。そしてそれは、私が部活を引退してから彼を知る人なら誰もが戸惑う程大きな変化となった。
「そっか、征十郎になったんだね」
「おかしなことを言うんだね。僕は最初から赤司征十郎だよ」
綺麗な紅い宝石と並ぶ琥珀のような瞳が何でもないように笑う。彼はこんなに冷たく笑う人だっただろうか。喪失感に胸が詰まるのを誤魔化すように笑い、頭を振る。
「私の呼ぶ『征くん』と、今目の前にいる『征十郎』はやっぱりちょっと違うもの」
「『征くん』じゃなくなって残念かい?」
「ううん、どっちも私の大切な人に変わりはないから。
でも、そっか。こうやって征十郎が表に出たってことは、征くんが苦しんでたのに私、支えてあげられなかったんだね」
彼は何でもそつなくこなしているように見えて、その実息抜きの仕方を知らない。それは決して彼の落ち度ではなく、息抜きという物が許されなかった彼の壮絶な生活環境のせいなのだけれど。
厄介なことに彼は隠し事が上手かった。もしかしたら、息付く暇なくのしかかるあらゆるプレッシャーの中で彼自身も限界だと気が付かなかったのかもしれない。
緩やかな崩壊の音は確かにしていたのに、心の奥では穏やかできらきらと輝いていた日々が続くと思い込んで、見ぬ振りをした。変わることを恐れた臆病な私は、一番大切な人を見捨てたのだ。
「なまえは悪くない」
いっそ、責めてくれたらいいのに。ごめんねと譫言のように呟く。ぽろぽろと零れる涙を、征十郎がハンカチで受け止めた。ほら、こういう優しいところは変わらない。それなのに、何で涙が止まらないんだろう。
赤司征十郎は確かにそこにいるのに、心に穴が空いたような喪失感は、彼の母が亡くなった時のように私を侵食した。それと同時に、彼自身の弱さが生み出したもう一人の彼を今度こそ支えようと、強く誓った。もう二度と失わないように、離れないようにと。
(170511)