目の前の人はいつもの白衣のまま、細く長い指先で、パタン。と教科書を閉じた。その動作さえ羨ましい。俺もあの指に触られたいものだ。

「こんな難しいことを考えず、とりあえず暗記すれば良いよ。」

夕方、生物準備室。分からない所を教えて欲しい、なんて生徒らしい言い訳を押し付けてやってきたのに。

「…そんな教え方でいーの?」
「いーの。だってはたけくんの場合、他の科目に力入れた方がいいもの」

そんなことをサラッと言ってしまうのは、先生としていかがなものか。と思うけれどある意味本質を突いているので何も言えない。正直、俺にとって生物は勉強しなくてもいい範囲なのだ。だから、俺がここにいる理由はただ一つ。あなたを独り占めしたかっただけ。

「……ね」
「なーに?」
「分かってんでしょ?」
「…んー?何の話?」

俺から目を離して、自分の机に広げていたこの前の小テスト。赤ペンで丸、三角を付けているその姿さえ愛おしいのはもう病気か。こっちを向いてくれなくても、俺にとってはいつものことだからどうでもいい。

生物準備室で、二人きり。室内の電気と窓から差し込む夕陽が相まって、どうしようもない気持ちを映しているようだった。軽く左手を掴むと、採点の手が止まる。握った手は温かくて、酷く恋い焦がれた。

「なあに、どした」
「……いや、…」
「んー?勉強疲れかな?」

……危ない。今、何言おうとしてたんだ、俺。冷静になると、先程の自我暴走し掛けていたことに戸惑う。

それを何だと思ったのか。掴んでいた左手を逆に握られて、反対の手が俺の頭をちょっと乱暴に、でもやさしく撫でてくれた。…なにこれ。すっげえ胸がギチギチ言ってる。そんな瞬間、目が…視線が合う。至近距離で微笑まれて、ドッと溢れ出す、感情。防いでいたはずなのに。俺の決死の思いを、いとも簡単に解いてしまうんだから。

………好きだ。どうしようもなく好きなんだ。この人が、 ……

俯いた俺を他所に、そうだ、と席を立って俺の背後にある冷蔵庫を開けていた。自然と離れていった温かみが酷く虚しくて、

「ジュースあったんだ。ちょっと休憩がてらに飲みなよ。」
「……」
「あ、みんなには内緒だか…」

ら、まで言わせなかったのは、何故か分からない。ただ、そんな背中を抱き締めたかっただけだ。抱かなくても知っていた、この人は俺より遥かに小さいということ。でも腕の中に閉じ込めると、その小ささを実感して胸が詰まる。首筋に顔を埋めると、ふんわりと甘い匂いがしてもう離したくない。

「は…たけく「これが一時の感情っていうなら、俺…もう恋愛出来ねーわ」
「……な、…何、言って、」
「好きだ」

俺の言葉一つで、腕の中でピクリと反応するこの人が愛おしくて仕方ない。でもすぐに、俺の腕の中から出ようとするから、いっそ力を込めて抱き締める。

「離したく、…ない。もうずっと…あなたが俺の中にいる。どうしようもないぐらい、……」
「……離、して、はたけくん」
「いやだ。もうどこにも行かせない」
「…!」

このまま掻っ攫ってしまいたい。なんて到底現実ではないことを本気で思えるほど、俺はこの人に恋していた。そんな不意を突かれて、腕の中から逃げられて準備室からも出て行ってしまった。でも不思議と後悔はしていない。寧ろ高揚感で一杯だった。根拠のない自信だけが、俺を覆っていた。

「……絶対俺のもんだから、」