純なラプンツェルはもう死にました
write : 2016.10.25
“願い事”を持っているマツバと少女の話。
「うーん、伸びたなあ……」
ぽつり、朝風呂から上がって諸々の手入れをしていた彼女の呟きが耳に入って、目を通していた書類から開け放たれた障子越しの部屋にいる彼女へと視線を移す。白いワンピース1枚という薄着で化粧台の前に座布団も敷かずに座り込んでいた彼女は、自身の長い髪をひと房つまんで鏡を覗いている。此方から見えるのは後ろ姿だけで、その分長く艶やかな黒髪が良く見えた。
僕と彼女の付き合いは、とても長いという訳ではないけれど短くもない。その間の中で、そういえば自分は彼女のロングへア以外の髪型を見たことがない、ということにたった今思い至った。だから何だと自分でも思うけれど、なんとなく、その事実は胸に残る。
僕からの視線には気付いていないのか、彼女は無言で繰り返し自身の髪を梳いている。その手の動きは何処か鈍い。きっと何か考え事をしているのかぼんやりしているのか、どちらにせよ此方への意識は乏しいのだろう。
「なまえちゃん」
驚かせないようにと声量や張りを考えてやわらかく声を掛ければ、彼女の手がぴたりと止まる。そしてそれから一拍も置かず、ずっと意識がしっかりしていたかのように振り返った。
「なあに?マツバさん」
僕が仕事の書類を読んでいるのを知っていて静かにしていた彼女は、僕から声を掛けたことに不思議そうに小さく首を傾ける。乾かしたばかりの柔らかそうな髪が、さらりと音を立てそうに流れた。
「大したことではないけど……髪が伸びて邪魔なのなら、良ければ僕が整えるよ?ミナキくんで慣れているし、下手ではないと思うよ」
「え、本当?じゃあ前髪だけ、お願いしたいです」
「後ろ髪は、いいの?」
「うん。前だけで良いんです」
前髪だけ整えるとなると、カット代が割高になっちゃうんですよねえ。そう言って苦笑する彼女は、やる事が終わったのかぺたぺたと緩い足取りで居間に戻ってくる。腰まである長い髪を結いもせず惜しげもなく揺らすのだから、甘いシャンプーが良く香った。
「なまえちゃんさ、ずっと髪が長いよね。何か拘りでもあるの?」
ぺたぺたと裸足でフローリングを歩いてキッチンの冷蔵庫から出したペットボトルの水を、彼女は小さな喉を動かして飲む。僕が少し気になったことを問えば、彼女は口を離したペットボトルにキュッと音が鳴るくらいに蓋を締めて、少しの間を置いた。
「……叶えたい願い事があるの。叶わないっていうのは解りきってる事だけど」
置かれた間はきっと十秒にも満たなかっただろう。けれど、その少しの間が彼女の言葉にある重みを物語っていた。そうなんだ、と何事もないように返せば、彼女は緩く笑む。それは、自分が気付かなかったフリをするという愚行を、赦す笑みだった。
「おまじないかい?ならミサンガとかの方が手軽で良いんじゃないかな」
「だって、ミサンガはただの願掛けじゃないですか。わたしはね、神様の御力を集めてるんですよ」
赦され愚行に走る僕に、彼女は悪戯に笑って返す。手持ち無沙汰なのか自身の顎の下を適当に弄る彼女は、笑っていながらもはっきりと自嘲していた。髪、髪の毛――神の気。古い世では人の髪をそう書き換えて、神の気が宿るものだと扱うことがあった。そんなことを何故若い少女である彼女が知っているのかはわからない。けれど、それを知りここまで髪を伸ばし手入れを欠かさずにいるのならば、それは物凄い執念だと思わざるを得ない。
そんな僕の考えに気付いたのか、彼女は自嘲を引っ込めて僕を見る。
「ひどい執念だって、引いたでしょ?」
「物凄い執念だな、とは思ったよ」
「同じことじゃないですか。でも、嫌な気分にはならなかったでしょ?」
「そりゃあ、勿論」
ペットボトルを持ったまま戻ってくる彼女に、僕も笑う。言っている科白とぺたぺたと間の抜けた足取りが妙にアンバランスで、それがまたこの空気の不可思議さを増気させていた。
「キミにそれほどの願いがあるように、僕にもそれだけの願いがある」
「お互い、願い、なんてお綺麗な代物だとは思えませんけどね」
「はは、確かに。違いないよ」
嫌な冗談のようで、彼女の言葉は本物だろう。彼女が何にその”願い”を向けているのかなど、知りもしない。けれど、僕があの虹色に向けているものがどれだけ泥に塗れているのかを思えば、彼女のそれも碌なものではないと礼も何もない予想が付いた。
「やっぱり後ろ髪も、切っちゃおうか?」
「うわあ。やっぱりいつもの店でやってもらおう」
「嫌だなあ、ほんの冗談だよ、冗談」
「同じ言葉を繰り返している時に誠意はない、って言いますよね」
「なまえちゃんは物知りだね」
そりゃあ、これだけ大事に伸ばしていた髪を不意にばっさりと、綺麗さっぱり切り落とされてしまったのなら、この子はどんな顔をするだろうかと思ったけれど。本当にそんなことをする程自分は下劣な人間ではないし、あの子を泣かせるのも本意ではない。
「キミが死んでしまう時には、僕に髪を切らせてよ」
「死に時なんて神様と接触するのに絶好のチャンスじゃないですか、嫌ですよ」
彼女の髪をひと房掬えば、甘い匂いと柔らかな手触りが五感から脳に伝達される。彼女のかみのけを持っていくのがあの虹色ならば、僕は手に入れられるのだろうか。