あなたの名前は、

write : 2016.10.28
鍛刀されて一年経った鶴丸と、審神者にとっての"名前"とは。


「わたしはなまえと言うの。宜しくね、鶴丸国永」
 自分がこの現し世に”心”在る者として降ろされた時のことを、俺はよぉぅく憶えている。俺の名乗りと口上を聞き届けた我があるじどのの開口一番はそんな言葉で、思わずそれが真名なのかと咄嗟に確かめてしまったものだ。
 瞳と揃いの空色が美しい着物を纏った僅かに幼さを残した顔立ちの女は、名を差し出しだ自分と同じように何の躊躇いもなく自身の名を人成らざるものに差し出した。背後に控える自分と同じ存在であろう”男の姿をしたもの”が止める様子がないのは、彼女と織り込み済みなのか、それとは違うのか。口元のほくろが目立つ男に懐疑の目を向けたのは懐かしい。
 此の本丸での生活は全く以て充実している。だからだろうか。自分が降ろされた時のことを、もう鶴も死ぬくらいには存在しているにも関らず、随分と昔の出来事のように懐かしぶことができるのだ。

「なまえ、今時間はあるかい?」
 今日日二陣目の戦から帰り、昼の羽休めになった頃。この時間ならば昼餉を終えて少ししたところだろうと目を付けて彼女の執務室に伺いを立てた。障子越しに感じられる気配は主の一つだけ。普段ならば近侍の加州清光も共に居るのを感じるのだが、今日に限ってあれのこれでもかと濃ゆい気配が一切もない。
「ああ、鶴丸?いいよ、入っておいで」
 いつものように穏やかな声色で入室を許され、失礼の一言を掛けて障子を開いた。そこにはつい先刻懐かしんでいた時と同じ空色の着物に羽織を引っ掛けた姿のあるじどのが居て、執務机を台にして書物を開いている。それが仕事の類ではないことを俺は知っているし、目が悪くもないのに眼鏡をかけているのは職務関係の書類が多量で疲れ目が酷いからだということも、俺は知っている。
 いつもと変わらぬ主を目に認めたところで、部屋の中央辺りに二枚の座布団が向かい合っていることに気付く。自分の前に誰か訪問者があったのかと思うも湯呑は片付けて座布団は手付かずなどあの近侍では有り得ないし、そうなれば答えは一つだろう。
「やあ、こりゃあ待たせてしまったかな」
「今日は鶴丸と何か予定を立てていた覚えはないけどね」
「うちのあるじどのは連れないねえ」
「ちゃんと座布団は用意してあるんだから、突然訪問の無礼には充分過ぎると思うよ」
「はは、そりゃ違いない」
 愛嬌のある笑みが基本的なうちのあるじは、それに見合わず結構に口がたつ。共に生活を始めた当初はその独特な持ち味に密かに振り回されていたが、今ではすっかり慣れたものだ。初めて出会ってからもう随分経つように思うのに、まだ人の子が神の内からこぼれるにも足りやしない時間しか流れていないのだから心というものは本当に不思議なものだと感慨深い。
 上手にある座布団に落ち着いた彼女に下手の席を促されると、自分はそこに正座で落ち着く。眼鏡を外して硝子板を通すことなく此方を見据える瞳は、あの時と変わることなくその色の名に違えず美しく澄んでいる。
「わたしの名前のこと、聞きに来たんでしょう?」
「ああその通りだ。よくわかったな?」
「鶴丸が、降りた日に加州を問い詰めてたのを知ってるからね。あの後に加州が教えてくれたの。一年経っても気になるならその時に教えてやる、って言ったらしいね?まあ本人はわたしに丸投げしたんだけども」
 誰が、とは言ってないなら約束に反してないからとはいえ丸投げってねえ。そんなことを少し不服そうにぼやく主に、喉よりももっと奥の方がじんと滲んだ。なにで滲んだのかはわかりもしない、けれど確かに、滲んだのだ。
 出会ったその時から丁度ひととせ経った今日日、あの俺を迎えられた時と同じ装いで。変わったのはその顔立ちから、あの時僅かに残っていた幼さが消え去ったことなのだろう。
 あの時。開口一番に真名を告げた彼女に、躊躇いも恐れも存在しなかったと俺は思う。人成らざるものに己の名を渡すことが如何程のことなのか、かつてと形は違えど審神者を名乗る人間が知らぬはずもない。彼女のその無謀とも言える行いのわけが、俺はどうしてだか、ずっと知りたくて堪らなかった。
「なまえ。この名は、間違いなくきみの真名だ。きみとはひととせを共にしたが、きみが此の事を真に理解出来ていない程愚かだとは到底思えん。理由が、聞きたいんだ」
「うん、名前は大事だからねえ……。まあ、大事だから教えたんだけどね」
「前から一期一振にも言われているのを度々見るが、きみは本当に言葉が足りないな」
「言葉遊びが好きなだけだよ。言葉は良いものだ。……大丈夫だよ、ちゃんとわかるように言うから」
 そんな顔しないで、と笑まれても、自分が今どんな表情をしているかなどわからない。それに無礼は承知で無言を通せば、彼女は仕方ないとでも言うように肩を竦める。そして臣下の無礼を咎めることもせず、その臣下の問いに応えるのだ。
「名前というのはね、とても大事。付喪神でもある貴方たちの言う大事、があるから、時の政府や関係者、審神者たちは皆して自分の真名を隠そうとするけれど。それが人間として間違ってる、なんて言う程偏った考えは持ってないけど……ただ、それは嫌だなあって、わたしは思ったの」
 主は俯くでもなく少し首を傾けて、けれど此処にはない何かに記憶を馳せるように目線だけを落とす。
「わたしはね、名前というのは線だと思う。”わたし”と”あなた”、”自”と”他”、そういうものの間に引かれているボーダーライン……境界線って言ったほうがいいか。そういうものだと、わたしは思うわけ」
「境界線……きみという”自”と俺という”他”を隔てる線、か」
「そう。そうだよ、名前は隔てる線だ。名前ってね、知っているか否かで築いていける信頼が違うんだ。名前を知らなくても、信頼関係を築くことは出来る。でもね、それは繋がりが途絶えれば消えてしまう、常に相手を見ていないと成立しない、わたしからしたら脆くてしょうがない、そういうものなんだ」
「俺は演練にもよく出ているしほかの審神者と刀剣男士の姿を多く見てきたがな、その関係に問題があるように見受けられるものは小指の甘皮程度しか見ることはなかったよ」
 “あるじさま”そう呼んで審神者に飛び付く今剣。”主殿”そう呼んで審神者に頭を垂れる一期一振。”主君”そう呼んで傍に控える秋田藤四郎。”主”そう呼んで武勲をもたらす三日月宗近。己の主を真名で呼ぶ刀剣男士など、自分たちのほかに目にしたことなどない。
 主の真名を知らないことが当たり前であるその中で、異端なのは自分たちの方であることは百も承知だ。彼女の真名を知っていることに不満などあるわけもない。――否、ある意味では俺は、不満だったのだろうか。
「刀剣男士はさ、審神者のことを『主』って呼ぶでしょう?でも”主”というのはただの役職で、過去から現在に掛ければ貴方たちの主――”鶴丸国永の主”はわたしだけを指してはくれない。違うかな?」
「今までの人間は主ではなく持ち主、所有者だと言えば。それはどう思う?」
「鶴丸もわかった上で聞いてるんだろうけど、勿論それは苦しい言い訳だね。大和守安定を見てみなよ。あの子は特に顕著だとは思うけど、それで君らが今までの人間を主だったと思っていないと言うのは頷けないね」
「確かに、違いない。認めよう。安達貞泰は俺の主だった。北条貞時は俺の主だった。織田のも御牧のも伊達のも。皆、俺の主だったさ」
「そう。いつかはきっとわたしも、”主だった”と言われる日が来る」
「そんなことはっ」
 主のその言葉に何かが溢れかえるように荒くなった声は、彼女が目で制したことで霧散するかのようになくなってしまう。落としていた目線を真っ直ぐに此方に向けられて、喉が詰まる。終わりの存在を匂わせているくせに、主は表情に陰をまとわないのだ。
「その”いつか”はわたしの死かもしれないしこの戦争の終結かもしれないけど、わたしはそのいつかが来た時に、『主だった人の子』っていうだけの存在にはなりたくないなあ。むしろ、他の審神者はそう思わないかが不思議で。だってわたし、”主”ではなく一人のひととしてわたしを見て、言葉を交わして、一緒に過ごして貰いたい。”主だから”じゃない、わたし――なまえだから膝を折ることを許し頭を垂れることを認める。そういう、”わたしありき”の信頼が、わたしは築きたかったの」
 ――わたしをみて。
 一体いつのことだっただろうか。ふと、過去の主だった人の子に携えられた先で視た嗚咽に喘ぐ少女がいたことが走馬灯のように駆けていった。
「だからわたしは名前――真名を渡した。わたしと貴方たちを隔てる壁を、境界線を渡した。託したと言えるのかな。境界線ありきの信頼なんて欲しくもない。わたしが貴方たちと築いていきたいのは、境界線のない、貴方たちの意志に基づいた、それなんだよ」
 彼女は笑う。いつもと変わらぬ、平和的な愛嬌を持って。難しいことは言っていない、世間話をするのと同じ表情で。
 それは何にも染まらずにいる無垢では考えられず思いもしないことだろう。けれどそれはどうしようもなく、曲がりくねって歪みを重ねた上で、それでも形を失わずにいた純情だ。とんでもなく尊くて、愛しいものだ。俺がそう思うことは、この娘が望んだ信頼だと言えることを信じたい。
「これで納得頂けたかな?わたしの鶴丸国永」
「ああ、大いに納得したさ。俺のなまえ」
 『わたしの』『俺の』。なんと甘美な響きかと、いつの間にやら喉の奥から胸まで下りている滲みがさざめいている。胸に手を当ててみても、紛い物の心臓が駆け足で脈打っているだけなのだが。
「俺は、不満だったのかもしれない。きみの名は、きみの信頼を勝ち得た暁に賜りたいものだと思っていた。だが俺がそう思っていたのは、きみが仰けから真名を渡してきたから成り立った信頼の上での思考なのかもしれないな」
「わたしの名前はもう褒美の価値はないからねえ……。わたしは真名を、貴方たちと自分が望むものへの対価にしたようなものではあるし。鶴丸のそれは所謂因果性のジレンマなのかもね」
「俺は鶏じゃなくて鶴なんだがなあ」
「頭が赤いのはお揃いね」
 愉快そうに喉を鳴らして笑う彼女を見ていれば、自分は満たされる。この滲みが何であるのか、俺には皆目見当もつかない。それでも確かなのは、今俺の目の前で語り、笑う人の子が、なまえという女である。それに尽きた。
「なあ、なまえ」
 真名を呼び掛ければ、彼女はなに、と応えてくれる。きっともうすぐあの口煩い近侍が彼女の湯呑を持って戻ってくるだろう。その前に伝えたいことは、これだけだった。

「俺は、なまえという人につかえるものだ。俺はきみがきみで在る限り、この膝を折りこの頭を垂れることを、鶴丸国永の名を以て誓い立てる」


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