想像しているほど世界は冷たくない

write : 2020.06.20
ミクリと幼馴染の小話


 結婚、しないかい。なまえ。

 青磁の瞳を、ふとしたときの癖でつい、と細めて、ミクリはそう言った。
 いつの間にかBGMと化したテレビは、お笑い芸人がネタを披露する姿を流し続けている。炬燵に口元まで埋まった間の抜けた体勢で、わたしはぱちくりと瞬きをした。
 今日のお昼頃のこと。仕事の関係で数年間ホウエンから離れていたわたしは、やっとのことで仕事に区切りがつき、久しぶりにホウエン、我が故郷であるルネシティへと帰ってきた。
 両親に会いに行き久々に話に花を咲かせ、その両親に会いに行ってこいとせっつかれて次に向かったのは、幼馴染の元。そこでわたしたちは数年ぶりに再会を果たし、折角だからと彼の自宅で夕飯をとることにしたのである。
 献立は、手間が掛からず気軽につつけるお鍋。炬燵に足を突っ込んで特に観ているわけでもないのにテレビを点けて、今の話昔の話に花を咲かせながら自分のペースで楽しくお酒を飲む。そんな風にのんべんだらりと過ごしていたかと思えば、この男は突然冒頭の台詞をぶっ込んできたのだった。
 あまりにも自然で、まるで世間話でもするかのような声色で言うものだから、本気のようには全く思えない。けれど、やわらかく穏やかに細められたその眼に、冗談のようなタチの悪さは見受けられなかった。

「それ、今言う?」
「今思い出したんだ、いいじゃないか」

 もぞもぞと体を起こして、わたしはテーブルに頬杖をつく。そんなわたしを見ながらミクリは小さく笑って、ほら、憶えていないかい?と首を傾げた。その表情は懐かしいものを思い出しているようで、可笑しそうに、けれど何処か愛おしそうに眦を下げるものだから、少しむず痒くてわたしも笑った。

「昔、約束しただろう?三十歳になっても互いに相手がいなければ、そのときは結婚しよう、って」

 大事なものに触れるようなミクリの言葉に、記憶の蓋が開いていく。ああ、そういえば、確かにそんなことを言っていたなあ。
 そう、もう二十年は前のことだ。ミクリもまだジムリーダーになっていなくて、わたしもまだまだ甘えた子どもだった頃。どういう流れか結婚の話になって、わたしたちはそんな口約束を交わした。
 あの頃のわたしたちはまだ恋心なんていうものは碌に理解していなかったし、たぶん、軽い冗談だったのだと思う。今わたしたちが思い出せたのだって、きっと偶然の産物でしかないに違いない。

「うん、そうだね。確かに、なんかそんなこと言ってたね」
「……本当に思い出したかい?適当なことを言ってるんじゃないだろうね」
「ちゃんと思い出してますって、もう」

 わたしがお猪口に日本酒を注げば、ミクリは無言で自分のお猪口を差し出してくる。ついでだから黙って注いでやれば、ミクリはぐいっと一息で飲み干して、機嫌がよさそうに息を吐いた。
 わたしも同じように一気にお酒を飲み干して、息を吐く。炬燵で芯まで温まった体に、よく冷えたお酒が喉を、食道を通っていくのが気持ちよかった。

「気が付けば、私たちももういい歳だ。なまえは相手がいないんだろう?なら、丁度いいじゃないか」
「わたし、ミクリに相手がいないことにかなり驚いてる。ミクリなら美女の一人や二人くらい、ねえ?」
「恋人はいたのだけどね。どうにも、結婚とまではいかなくて」
「うわあ、わたしと同じパターンだ」
「なら、尚更丁度いいというものだよ」

 上機嫌で微笑みながら同意を促してくるミクリに、わたしは思わ呆れた目を向ける。この人、酔っ払っておかしくなっているんじゃないだろうか。
 だって、そんな、思い出したからといって、今の今まで忘れていた昔の、しかも幼い子供の口約束を、こんなにあっさりと果たそうとするだなんて。そりゃあ酔って頭がおかしくなっているとしか思えないのも当然だろう。明日にはきっと、額に手を当てて苦く笑いながら、忘れてくれとでも言うに違いない。
 しかし、わたしのそんな考えなんてミクリにはお見通しだったらしい。不意にすらりとしたしなやかな指が伸びてきて、わたしの額を軽く弾く。じんわりと広がる小さな痛みに大袈裟に眉を寄せれば、ミクリは小さく笑った。

「考えてもみなよ。私たちは幼い頃から一緒だったんだ。結婚してそういう意味で一緒になったところで、今更何が変わるというんだい?」
「夫婦になるよね」
「関係の名称が変わるだけのことさ」
「だってわたしたち、恋愛感情とか、ないよね」
「だからといって夫婦になれないわけではないだろう」
「うん、まあそりゃあそうだね」

 さも当然のようにミクリが言うものだから、言われるがままに少し考えてみる。そうすれば……確かに特にデメリットも無いような気がしてきた。
 ミクリとは昔から、それこそもう二十年以上も前から気心知れた仲なので変に気を遣う必要もないし、普通に問題なく、むしろ上手くいくのではないだろうか。今日実家に帰ったときには母にいい人はいないの?と言い募られたし、ミクリとさっさと結婚してしまえばそれも解決してしまう。母もミクリが相手ならば文句を言わないどころかそれこそ泣いて喜ぶだろうし……。
 考えれば考える程に、メリットしか見つからない。わたしも酔っ払っておかしくなってしまったのだろうか。
 自分の頭を疑ってうんうんと考え込むわたしを、ミクリは面白がるように眺めながら頬杖をつく。そして、ゆったりと、穏やかに口を開いた。

「それと、ね。まあ、これが一番の理由なわけだけれど……」

 青磁の瞳をこの上なくやわらかく溶かして、ミクリは笑う。

「私は、これからもずっとキミと共に居たいと思ってるんだ。それだけでは、足りないかな?」

 一瞬、きょとりと呆けてしまった。そして、目を何度も瞬かせる。そして、次の瞬間には、ふにゃふにゃと力なく頬が緩んでいた。
 なんて、殺し文句だろう。ミクリが言うと、それが更にとんでもなく威力を増しているように思える。
 ……ああ、困った。これじゃあ、断る気なんてこれっぽっちも起きやしないじゃないか。

 控えめに空気を揺らしたわたしの答えに、ミクリはふにゃふにゃと力なく、幸せそうに頬を緩ませていた。


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