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 嗚呼、なんて穏やかな時間だろう。コーヒーを舌で転がしながら自然とそんなことを考えて、自分は此処に居る時は大体似たようなことばかり考えているとふと思い至った。
 悪友がほとんど私物化している大学の研究室に、自分と悪友、そして親友の3人だけ。この酷く限られた、人によっては閉鎖的とも言えるような自分が好むものだけが在る空間というのが、僕は存外好きらしい。コーヒーを淹れるのは、キッチンのケンよりもホールのナマエの方がじつはうまい。存外好きな空間で美味しい彼女のコーヒーを飲みながら、2人と数学パズルや世間話を楽しむ。僕の人生が変わってしまう前には些細かもしれなかったことが、今の自分には酷く尊いものだった。

「イッキがずっと黙りなんて珍しいね。何か考え事?」

 穏やかな声に名を呼ばれて顔を上げれば、向かいのソファの斜め前に女の子が座っている。長い髪を結びもしないで垂らして薄いながらもメイクだってしている。上向きの睫毛に縁取られたくるりと丸い目をしたその人は、間違いなく"女性"だ。けれど彼女はしっかりと僕の姿をその瞳に映しながら、顔を赤らめることも目に涙を浮かべることも声を上ずらせることもない。僕の"目"に惑わされることなく理性を保つ彼女は、だからこそ、女性でありながら親友という自分の懐に位置していた。

「あれ、ケンは?」
「10分くらい前に出て行ったよ。教授からのお呼び出しみたい」
「そうなんだ。2人とも水臭いな、声くらいかけてくれれば良かったのに」
「だってなんかイッキ、変に黙り込んでたんだもん。嫌なことがあったようには見えなかったからさあ......ケント、気味が悪いってすごい顔してたからね」
「気味が悪いって、ケンのヤツ......」

 声を上げることなく静かに喉を鳴らして笑う彼女に、やっぱりいいなあ、なんて少し熱を込めた目を向けてしまう。すると彼女は居心地が悪そうに身動ぎをして、ふいと顔を逸らしてしまった。それでも赤くならないその耳に、どうしても嬉しくなって口元が緩む。

「あのさぁ、イッキ......そういうのは良くないって、前も言わなかったっけ。いい加減自覚して欲しいんだけど」
「流石に他の子たちにはやらないよ、僕だって自分の首を絞めるのは嫌だからね」
「いや、あんたの為じゃなくてさぁ、私の為にも自重してほしい」

 ひたりと、空気が凍った気がした。否、僕の血の気が引いたのだ。指先から急速に冷えていく感覚が、いっそ痛い。変わらず赤くもない顔を逸らしている彼女の表情は見えなかった。きっと僕も、見たくなかった。声をかけようと開いた口から零れる息は、呆れるくらいに震えている。

「まさか、効いてるの。僕の、目の力」
「FCの子やリカみたいなものではないよ。でも......流石に全く効いていない、とは言えない」
「嘘、だよね?」
「へえ。イッキは私がこんなタチの悪い嘘を吐くような人間だと思ってるんだ」

 僕の問いかけに肯定を返す彼女に、縋らずにはいられなかった。僕の魅了の力が効いていたのなら、親友というこの関係は何なのだ。付き合いだって短くない、だから僕の言葉からその思いを察したのだろう。余裕がないときにしかそれをしない彼女が皮肉を返しながら、己に自虐を向けていた。
 ついさっきまで穏やかだと浸っていた空間に、互いの沈黙が落ちる。一向に僕を見ない彼女から、目を離すことができない。
 長い黒髪は細くて柔らかくて、指通りが良さそうだ。いるもシンプルな服装の薄着ばかりで、首筋や手首の白さや華奢さがいっそ眩しい。着痩せするらしく主張の少ない胸も、整えられた丸い爪も。彼女は紛れもなく、女性だった。今更そんな"親友"の性を改めて認めて、そうすれば、冷えていた指先に熱が戻ってくる。その違和感はやがて、僕に疑問をもたらした。
――ナマエに親友ではなく男として見られていて、嬉しいと思った気がする。

「恥ずかしい話、私はこの歳になってもまともな恋の一つですらしたことがない」

 沈黙を破ったのは、彼女の方だった。先に沈黙を破るのはより気まずく思っている方だというのはよく聞くが、彼女がそれをするのは本当に珍しい。やはり僕を見ることはない彼女を一方的に見つめながら、結論から話さないこの話し方でよくケンに文句を言われる彼女の軽快な笑顔を恋しく思った。

「イッキの目の力は、恋をしているような感覚にするものなんでしょう?それこそ、一目惚れだとかで出会ってすぐに告白する子がいるくらいには。でも私、FCの子たちのことが理解できない。あれはアイドルに対するもののようにばかり私には映って......私はね、イッキの目を見て体が火照ったり動機が激しくなったことはないんだよ。それは誓ってもいい。でもどうしようもなく、苦しくなるの」
「恋には苦しみも付きものだよ。それすらも甘美になる、そういうものなんじゃないの?」
「自分の経験なんてないくせによく言うよ。私のそれの中に、甘さなんて一切なかった。欠片ですら。嫉妬みたいに身を焦がすような激しさとも違う......ああ、これは。罪悪、これがぴったりだと思う」

 白く細い指先が、ワンピースの胸元を握り締める。



書き出した時はもっとライトな感じなつもりだったんだけど書いてく内に割と深刻な感じになっていってオチに持っていく気力が根こそぎ奪われたやつ。最後にはちゃんとくっ付く。




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