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「こら氷輪、寝るなよ」
「ねないですよ……たぶん」

 ふわりと、乾いた暖かい風が頬を撫ぜる。私立高校であるこの学園は、学費が高いだけあって空調設備は完璧だ。眠気を誘うような室温に、机に伏せながらとろとろと微睡んでいれば、この部屋の主である琥太先生は呆れたように注意してくる。鼻の奥をやわらかく擽るお茶の香りが相まって、心地良い脱力感に包まれているようだった。

「大体、今は春休みだろう。何でお前が居るんだ」
「琥太先生が寂しがってるかと思って」
「よし、今すぐ出て行け」
「嘘だよ、ただ暇だったから遊びに来ただけ」

 顔を埋めていた腕から目元だけを出せば、書類から顔を上げてこちらを見ている琥太先生と目が合う。出て行けと言う割に、その声も、細められている瞳も、優しくてあたたかいのだから、なんだか胸のあたりが擽ったい。
 星月学園に入学してから初めての春休みに入ったけれど、思っていた以上に暇だった。家に帰省する予定もないし、誉は実家へ帰省してしまったし、一樹は来年度へ向けての仕事で忙しいし、桜士郎は相変わらず何処に居るのかわからない。一樹には仕事を手伝ってくれと頼まれるけれど、それは昨日も一昨日も手伝ったので今はやりたくない。課題の量は多いけれど、毎日根を詰めてやる程でもない。時間が有り余っているせいか、毎日授業を受けていたときが少しだけ恋しく思えた。

「春だねえ、琥太先生」
「ああ、春だな」
「新年度、始まっちゃう」
「お前もまた先輩になるな」
「ね、わたしもまた、せんぱいだ」

 琥太先生の滑らかで落ち着いた声が、心地良い。わたし、また、せんぱいになるんだ。ふわふわと浮くような意識の中で、そう思った。エアコンの風は暖かくて心地良いけれど、目が乾く。きゅう、と目を閉じれば、あっさりと意識は沈んでいくのだ。

あたらしいかんきょうは、やだなあ。

 意図せずこぼれた呟きに、わたしが気付くことはない。





「氷輪、おい氷輪。そろそろ起きなさい」

 緩い力で肩を揺すられ、ゆるりと瞼を押し上げた。肩に置かれた体温、鼻腔を擽るコーヒーの香り。のそりと鈍い動作で体を起こせば、肩からずるりとブランケットが落ちる。焦点の合わない視界がはっきりとして、わたしの目には呆れたように息を吐く琥太先生が映った。

「おはよう、まったくよく寝たもんだな。寝ないと言ったのは何処の誰だったか」
「うわあ、ごめんね琥太先生。こんなに長居するつもりはなかったんだ……」

 窓の外は、薄暗くなり始めている。時計を見れば、さっきまでは13時であったにも拘わらずその針は17時を指していた。わたしはいつの間にか、眠っていたらしい。琥太先生の傍はどうにも落ち着いて、気が緩んでしまうから困る。
 机にはわたしが勝手に持ち込んだマグカップが置かれていて、その中では良い香りを漂わせるコーヒーが湯気を立てていた。琥太先生はコーヒーは飲まないし、この保健室でこうしてコーヒーを飲むのはわたししかいない。わたしのひとつ隣りの席に椅子を引いて腰掛けた琥太先生にお礼を告げてマグカップに口を付ければ、彼は、ああ、と返して緩く微笑んだ。

「氷輪」
「なあに、琥太先生」
「お前が不安に思うのは、決して可笑しいことじゃない」
「……不安なんかじゃないよ、別に」
「ああ、ならそれでもいいから。ちゃんと聞きなさい」

 琥太先生のこの声は、生徒に対するものというよりも手のかかる妹へのものによく似ている、と思う。わたしは入学当初から琥太先生には他の先生よりもずっとお世話になってきているし、唯一の女子生徒ということもあってある意味特別な存在なのだろう。わたしからしても琥太先生は特別な存在だと思っているし、それは恋愛感情だとか問題になるような類のものではないのでわたしも隠してはいない。琥太先生は聡い人だから、きっとわたしからの「特別」にも気付いていることだろう。
 琥太先生の言葉に、わたしはコーヒーをちまちまと啜りながら黙って耳を傾ける。そう、琥太先生は、聡い人だから。わたしの些細な感情の揺れにだって気付いてしまって、こうして背中から支えてくれようとするのだ。手を取って引っ張っていくような陽日先生とはまた違ったそれは、素直に胸に染み入ってくるのだから心地良い。

「お前は、この学園唯一の女子生徒だ。そのせいで今まで大変だったのは、俺もよく知ってる」
「うん」
「だからこそ、やっと落ち着いた今の状況を新入生たちによって崩されるかもしれないと不安に思うのは、当たり前のことだ」
「、うん」
「何かあったら、また今まで通り此処に来なさい。いつでも匿ってやるから」

 苦いコーヒーと一緒に、琥太先生の言葉がじんわりと染み渡ってくる。胸の奥に居座っていた冷たい塊が、雪のように溶けていく。思わずじわ、と僅かに視界が滲んで、ひとつ深く呼吸した。少しだけ濡れた目元を、琥太先生に気付かれないよう制服の袖で拭う。ぇれどやっぱり気付かれて、琥太先生はやわらかく翡翠の瞳を細めた。

「もう、だから、琥太先生すき」
「はいはい、ありがとさん」

 ぽん、と軽く頭を撫ぜて、琥太先生はからからと笑う。その手付きが優しくて、けれど何処か力強くて、思わずだらしなく頬が緩む。
 琥太先生が匿ってくれるなら、わたし、頑張れそう。



 桜の開花を待つその日、新たな季節が少しだけ憂鬱ではなくなった気がした。

いとしい春をぼくらに

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