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「みつるちゃんは、どうしてこの学園に入学しようと思ったの?やっぱり星が好きだから?それとも───男に囲まれて生活したい、男好きだから、かな」


 いつも穏やかでのんびりとしている琥太先生が、珍しく鋭く声を荒らげる。そんな様子にまあまあ琥太にぃ落ち着いて、と反省することなく笑う1人の男性。琥太先生とはまた違ったタイプの整った顔に、人が良さそうな笑みを浮かべながらも、眼鏡の奥の瞳は冷えたものを湛えていてあまり居心地は良くなかった。
 この人は、つい先日教育実習生として紹介されていた、水嶋郁先生だ。紹介されて早々に男と宜しくする気はないと笑顔で切り捨てていたのは記憶に新しい。何でも月子ちゃんのクラスに配属されたそうで、軟派な人だと彼女が恥ずかしそうに教えてくれたことを思い出す。

「いいよ、琥太先生。そんな怒らないで」
「あれ、君は随分と優しいんだね?もしかして、男になら何を言われても許せちゃうタイプ?」
「ッ郁!ああ、もう……氷輪、お前はもっと怒るべきだろう」
「怒るの疲れるし、面倒」
「……そうだな、お前はそういう奴だったよ、まったく」

 相当失礼なことを初対面でぶつけられたが、怒りのような感情は湧いてこなかった。この1年間で、名前も知らない人に男好きだと理不尽に罵られたことは両手では数え切れないし、根も葉もない噂を流されたことだってある。言うならば、もう慣れてしまった。心臓をちくちくと刺されているような不快感はあれど、怒りを抱くことはない。琥太先生は優しい人だから、きっとわたしの分まで一緒に怒ってくれているのだ。
 わたしの反応に何処か不満そうにしている水嶋先生に、わたしは静かにコーヒーを啜る。琥太先生は呆れたように溜め息を吐いてから言葉を発しないし、水嶋先生もわたしをじろじろと観察しているようで黙っていた。
 空気は重いし、沈黙は痛い。ああ、どうしてこうもわたしはこんな目に遭ってばかりなのか。原因は言わずもがな、わたしが女だから、ということなのだろうけれど。少しだけ悔しくて唇を噛めば、傷が付いたのかじわりとコーヒーが染みた。

「ごめんねみつるちゃん、嫌な気分にさせちゃったかな。ほんの冗談のつもりだったんだけど」
「別に、思ってもいない謝罪なんて欲しくないから。気にしなくていいですよ、水嶋先生」
「うわあどうしよう琥太にぃ、可愛いけど可愛くない」
「完全に自業自得だからな、郁」

 ころりと態度を変えた水嶋先生によって、多少は空気がマシになる。会話を交わして僅かであんな冗談をかましてくるだなんて、この人は結構、否、大分性格が悪いと思う。本当に冗談のつもりだったのかは怪しいところだ。あの瞳にちらつく冷え切った色は、どうにも演技にしては出来過ぎているような気がした。
 ごめんね、これで許してよ。そう言って飴玉を差し出されて、わたしはどうも、と受け取る。チョイスがイチゴ味というところがまた、狙っているんだか、いないんだか。包装を破いて飴玉を口へ放り込めば、人工的なイチゴの味が広がる。ころころと転がしながらも、あまり好きではないなとひっそり思った。

「水嶋先生、月子ちゃんにもおんなじこと言ったの」
「ああ、うん。君と違って彼女には怒られちゃったよ。怒った顔も可愛かったけどね」
「うちのマドンナは繊細なんだから、お手柔らかにして欲しいね。おイタが過ぎると騎士たちに目を付けられちゃうよ」
「よく肝に銘じておくよ」

 くすりと笑った水嶋先生に、反省の色は見られない。恐らくまた懲りずに月子ちゃんにちょっかいをかけに行くのだろう。それはやはり、止めてあげて欲しいなあと思う。彼女は、今まで上手い具合に騎士こと幼馴染や弓道部、生徒会のメンバーに守られてきたのだ。そういう男の下心とか、……悪意、から。水嶋先生のような、直接的なそれは彼女には酷だろう。けれどわたしが何を言っても無駄なのだろうし、今回も騎士たちが上手く守ってくれることを祈るしかない。
 口に入れたばかりの飴玉をがり、と噛み砕いて飲み込む。口に残った不快な甘さを苦いコーヒーで上書きして、全部を飲み干すと立ち上がる。

「琥太先生、わたし寝るね」
「おい、授業はどうするんだ」
「次は直ちゃん先生だから、上手いこと言っておいて」
「教師2人を前に堂々とおサボり宣言なんて、やるねえ」
「はいはい、おやすみなさぁい」

 ぶちぶちと文句を言う琥太先生とからかうように笑う水嶋先生をあしらって、しゃっとカーテンを閉めた。ブレザーを脱ぎ捨ててベッドに潜り込めば、すぐに睡魔が襲ってくる。

そんな簡単な理由でこの学園に来ていたら、もっと楽だったかもしれないのにね。

 そんなことを言ったところで、きっと彼に伝わりなどしないのだろうけれど。





 ぱちり。頬に何か擽ったさを感じ目を覚ませば、すぐ近い距離に水嶋先生がいた。うろうろと視線を彷徨わせていれば、わたしの頬に触れていた水嶋先生の手が擽るようにゆるりと撫ぜてくる。なんだかむず痒くなるようなやわらかな手付きに目を細めれば、水嶋先生は意外にもゆるく眦を溶かした。

「寝顔は随分とあどけなくて可愛いんだね、みつるちゃん」
「なに、してるの。水嶋先生」
「やっぱりちょっと言い過ぎちゃったかなって思ってね。様子見がてら起きるの待ってたんだよ。もう、琥太にぃの許可を取るのが大変で大変で」

 琥太にぃがあんなに過保護になるだなんて、やるねえ、みつるちゃん。くすくすと笑う水嶋先生は、さっきよりも何処か雰囲気が丸いというか、やわらかいような気がする。わたしが寝ている間に一体何があったのだろうか。未だ撫ぜる手を緩く退けて起き上がれば、水嶋先生はハンガーに掛かったブレザーを外して渡してくれた。わたしは脱ぎ捨てたままだったから、彼がわざわざハンガーに掛けておいてくれたのか。

「どうしたの、水嶋先生。そんな急に態度変えて」
「ううん、別に。ただね、君の寝顔を見ていたら、君もまだ子供なんだなあって思って」
「もう卒業まで約半年だけど」
「ふふ、さっきまであんなに警戒してたのに、たったのカーテン一枚の先でぐっすり寝てるんだから……それも、ちょっとだけ不安そうな顔なんだから、さ」

 少しだけ憂いを帯びた瞳で笑った水嶋先生に、気付いてしまった。この人もきっと、聡い人なのだろう。人の想いや感情に敏感で、漠然としたものであれど、きっとわたしの「それ」にも何とはなしに気付いてしまったのだ。ならこれは、同情なのだろうか。けれど、それだけではないということはなんとなくわかった。この人もまた、きっと何かを抱えているのだろう。

「水嶋先生ってば、さっきまで手負いの獣みたいな目をしてたくせにね」
「みつるちゃん、君のような勘のいいガキは嫌いだよ、って台詞知ってる?」
「あはは、嫌いじゃないくせに」
「ふ、本当、可愛いけど可愛くない。……でも、やっぱり可愛い」

 再び触れてきた水嶋先生に、わたしはそれを避けることなく甘受した。彼のその「可愛い」には何処か甘いものが含まれているように感じるけれど、邪なものは感じられなかった。なんだかわたし、絆されてるなあ。結構、酷いこと言われたはずなのだけれど。そんな相手を絆てしまうだなんて、水嶋先生は魔性の男?なのかもしれない。

「仲直りの印に、これからは郁ちゃんって呼んであげる」
「先生は付けてくれないの?」
「郁ちゃんはまだ実習生だから駄目です」
「まったく、我儘なお姫様だね」

 水嶋先生。改め郁ちゃんは、含みもなく、憂いもなく、やっとちゃんとした笑顔を見せてくれた。ちゃんと笑うと少し幼い表情になって、可愛らしいと思う。
 この人になら、ちゃんと、色々話したい。かもしれない。この人なら、この人が抱えている何かを知ってもいいかもしれない。ほわ、と胸にあたたかい火が灯ったようで、なんだか少し、心地が良かった。

きみに触れたいこころをきいて

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