□ □ □


 消失願望、とでもいえばいいのだろうか。
 世界から消えたい、なんてそんな大それた規模ではなくて、誰からも"氷輪みつる"という人間として認識されない場所に、いきたい。それはなんだか、逃走願望にも似ているかもしれない。
 普段の生活の中では比較的落ち着いているそれが、偶に、突然発作が起きるように弾けることがある。予測はできない、前触れもほとんどない。ように、ではなく、これは本当に発作に近いものだとわたしは思っている。

 手首に巻いてある時計を見れば、その針はすっかり遅い時間を指し示していた。空を見上げればそこには当然のように月が浮かび、星が瞬いている。学園で見るよりもずっと数が少なくて輝きも小さいその星空は、わたしが今その場所とは違うところにいるということを改めて強く思い知らせた。
 朝早くに学園を出てから、最寄駅の普通列車に乗り込んでもう十何時間も経っている。乗り換えをした数はそう多くはないけれど、どの乗り換えでも乗った駅からずっと離れた駅で乗り換えて、という作業を繰り返していた。だからわたしは今、学園からかなり離れた場所にいる。離れた場所というのを一言で言ってしまえば、今いるこの場所は誤魔化しようもないくらいに紛れなく、県外だった。
 1日中電車に揺られて、最低限の言葉だけを発して、車窓の向こうで次々と移り変わっていく景色を無感動に眺める。そうしていることに、退屈も何もありはしなかった。何処か、遠いところへ。今のわたしにあるのはただ、その願望だけだったのだから。
 電車から降りた駅の外へ出ていけば、その駅は待ってましたと言わんばかりに次々と構内の電気を消していく。名前を聞いたこともないこの駅は、わたしが乗ってきた電車の終点地だった。この駅全体の最終列車もなくなっていて、ここがわたしにとって完全な行き止まりになる。今回のわたしの"消失"は、ここが終点地のようだった。
 全く知らない地で少し辺りを見渡せば、運がいいことに近くに電話ボックスが建っているのを見つける。古臭い外観でぽつりと佇むそれに、何か事件でも起きそうだなあ、なんて馬鹿なことを考えながら、わたしは古びて頼りない音を出すドアを開けた。
 中に入って、公衆電話に薄く積もった埃を軽く払う。持ってきていた小さなショルダーバッグから財布を取り出して、小銭をじゃらじゃらと電話台に広げた。そこから100円玉を選んで、1枚ずつ投入していく。
 久しぶりに使うにもかかわらずしっかりと憶えている数字を順番にプッシュして、夜風で冷えた受話器を耳に当てた。……番号を押してからコール音が聴こえるまでの空白は、嫌いだ。その空白は、昔からいつもわたしに漠然とした不安と虚無感を抱かせる。

「みつるか?」

 1コールが聞こえるか聞こえないかで音が途切れて、聴き慣れた声がわたしの名前を呼んだ。たった1日呼ばれていなかっただけなのに、それとても久しぶりであるように響いて、わたしに染み渡ってくる。
 ぐっと喉の奥が詰まったように苦しくなって、受話器越しの彼に気付かれないようにゆっくり、ひっそりと深く息を吐いた。

「うん。……今晩は、一樹」
「ああ。それで、何か言うことがあるんじゃないのか?」
「心配かけてごめんね」
「ほんっとうだよ、この大馬鹿野郎が」

 低く唸るような声と、深い深い溜め息。ごめんね、なんて謝るわたしに、一樹は心底腹を立てているようだ。けれど、それよりもずっと心配をしている。彼の言葉はそういう、いろんなものが入り混じった声で吐き出されていた。
 わたしがこうして外出申請以外で何も言わずにいなくなることは、初めてではない。けれど、一樹には今回もまた相当心配をかけたのだろうと思う。だって、親しい関係である以前に一樹は根っからの情が深い人だから。だから、その心配はきっとわたしが思っているよりもずっと大きいものなんだろう。

「今、何処にいる?」
「駅の近くの電話ボックス」
「お前、わかってて言ってるな?」
「うん」

 また、深い溜め息が聞こえてくる。一樹からのその問いには、素直に答えるのが心配をかけている側としての最低限だと思う。けれど、かといってわたしにできるかと問われれば、それは到底無理な話だった。
 わたしが"消失"する度に、一樹とは同じような遣り取りをしている。だから、彼は今更わたしが答えるなんてことは端から期待していないだろう。でも、今度こそ、呆れられただろうか。いい加減、嫌気が差したんじゃないだろうか、とそんな恐怖と不安に侵される。そういうことから逃げたくてこんな馬鹿げたことをしているというのに……わたしは、初めて"消失"をして以来、一樹への連絡を欠かしたことは一度としてなかった。

「一樹、ごめんね」
「……それは何に対してだ」
「だってわたし、今、一樹のこと否定してるから。一樹はいつだって手を伸ばしてくれてるのにね……今のわたしはその手を取れなくて、むしろ、叩き落としてるようなものだし」

 信じていい、と。絶対に裏切らない、と。常に手を差し出し続けてくれる一樹に、今のわたしは貴方を信じられないと言っているようなものだった。違うの、そうじゃないの、でも、今は誰にもわたしをみてほしくないの。一樹を信じているけれど、今はその手を叩き落とすことしか、わたしにはできない。
 この複雑さを一樹がわかっているのかは、知らない。けれど、怒りも呆れもするけれど、それでもわたしを見放さない一樹が何もわかっていないと思い込むほど考えなしのつもりはなかった。

「おうなんだ、自覚あったのか」
「ちゃんとあるよ?一樹に殴られて以来ね」
「おまっ、殴ってはいないだろ、殴っては!」

 冗談半分に言ってみた言葉に一樹の硬かった声が慌てたように崩れて、自分の呼吸が少し楽になったのを感じる。ガコン、だとかあちっ、だなんて聞こえてくるものだから、受話器の向こうにある風景が簡単に想像できてしまって体の力が少し抜けていった。
 勿論一樹の言葉の通り、彼に殴られたことは一度もない。殴られたのではなくて、胸倉を掴み上げられたのだ。そして、殴りかかるかのような勢いで怒鳴られた。お前は一体何を考えてるんだ、と。
 あんなにも怒り心頭な一樹を見たのは、初めて"消失"した時の一度きりである。

「ちゃんと、明日には帰るから」
「当たり前だ。桜士郎も誉も、皆心配してるんだからな」
「うん」
「帰ってきたら総出で説教祭りだ、この馬鹿娘め」
「……だから皆にオヤジ臭いって言われるんだよ、ぬいぬい」
「この期に及んでいい度胸だなぁみつる?」

 一樹は、気付いていないのだ。一樹が皆とは違う、わたしにとっての特別を持っていることを。
 皆、わたしのことをとても心配してくれているし、何かあれば叱ってくれる。けれど、怒りはしないのだ。わたしに怒るのは、一樹だけ。枠組みなんて蹴散らして、形振り構わず、わたしの身勝手に対して怒りをぶつける。それがわたしにとってどれだけ大きな意味を持つのかなんて、あんな言動をしているくせして自己評価の低い彼は知りもしないのだ。
 そろそろかな、と電話の投入金額残高に目を向ければ、そこに表示される数字はもう10にまで減っていた。県外なんてかなりの距離だから、500円程度じゃあっという間に時間が過ぎてしまう。もう切れちゃうと思う。そう言えば、一樹は驚いたのかまたガタタッと大きな音を立てた。

「は?早すぎだろ、まだ5分くらいしか経ってないぞ?」
「500円入れたんだけどねえ……まあ、県外だし仕方ないね」
「はっ?!おまっ、県外だぁ?」
「あっ点滅してる!おやすみ一樹!」
「ちょっ……」





 受話器を戻して、大きく息を吐く。夜風に曝されていない電話ボックスの中でも、吐いた息は外と変わらず白く色付いていた。いつまでもこんなところにいたら、間違いなく風邪をひくだろう。そんなことになったら一樹から説教に加えて大目玉を喰らうのは想像に容易いし、早いところビジネスホテルなり何なりを探して明日に備えて寝てしまおうと背中を伸ばす。

"みつる!待ってるからな!"

 慌ただしく電話が切れるギリギリで投げ込むように掛けられた声が、今もまだ耳に残っている。ああ、一樹は今回もまた、消えたわたしの帰りを待っていてくれるのか。そう思うと、目の奥がじんわりと熱くなって自分の単純さに少し笑ってしまった。
 初めて"消失"したあの日。一樹の逆鱗に触れた、あの日。いつも力強く輝いている若草色から零れおちたたった数滴の雫を、わたしが忘れることはないのだろう。
 それがわたしを繋ぎ留める命綱のひとつであるということは、まだ誰も知らなくていい。そう、思う。

鱗を剥がしてもういちど

ALICE+