一二三と扉越しのお喋り

ずず、と鼻を啜る音が扉越しに聞こえた。この向こう側には一二三がいて、つまり彼はいま泣いているのだ。できれば今すぐにでもこの扉を開けて、彼を抱き締めて、泣かなくていいよと、あなたは何も悪くないよと、そう伝えたかった。それでも私はそれをできない。たった一枚の扉で隔たっているはずなのに、なぜかそれは何よりも厚い壁のようだった。

「ごめ、ごめん。俺っち、やっぱ、ダメみたいで」
「うん、分かってる」
「こうやって、顔見なかったら話せるようになって、だから、いけるかなーって、思ったんだけど、」

そこで、しゃくりあげる声が聞こえて、言葉が一度詰まった。一言一句聞き漏らさないように、私は扉にべたりと体を預け、片耳をそこへ押し付ける。

「ほんとは、ちゃんと顔見て、たくさん話したくて、俺っち、名前のこと、ほんとに、ほんとに大好きなんだ。なのに、なんでこんな、上手くいかねーの、もういっそ笑える」

すう、と息を吸って、はああと大きく吐き出す音。そうして漸く少し落ち着いてきたのか、はは、と自嘲の色の濃い笑い声が混ざる。

「大丈夫、ゆっくりでいいよ。こうやって話せるようになったんだもの、いつかちゃんと顔を見て話もできるようになるわ」
「俺っちのこと、待ってくれる?」
「勿論、いつまででも」
「時間すっげーかかりすぎて、お爺ちゃんとお婆ちゃんになっちゃうかもしんねーよ?」
「お年寄りになっちゃうぐらい長い間ずっと一緒にいられるなんて素敵じゃない!」

元気づけるために意識して明るく返すと、今度こそ彼から本気の笑いが漏れた。

「プッ、ははっ…!そっか、そーだよな。あんがと、元気でた」
「それは良かった。もう大丈夫?」
「うん、俺っちもうちょー笑顔だから!名前のおかげで元気百倍だし!あ、元気と言えばこの間職場であった話なんだけど、」

すっかりいつもの調子を取り戻したのか、くるくると彼の話題が移り変わっていく。職場の話、後輩の話、最近見つけた野良猫の話、釣りに行った話、同居人の話。途切れることなく続くそれはまるで歌でも歌っているようだ。私はその旋律に耳を傾け、ときに相槌をうち、ときに自分の話をし、そしてともに笑いあった。
そうやって、どれぐらいの時間がたっただろう。話す話題もそろそろ尽きかけたころ、ぽつりと、一二三が呟いた。

「俺っちさ、ときどき思うんだよね」
「何を?」
「もし名前が、女の子じゃなかったらあんなに苦しくて辛い気持ちにはならなかっただろうなって」
「一二三…」
「でも、名前が女の子だから、俺っちはこうやって名前のこと好きになって、一緒に話したり、笑ったり、こーゆーの、すげー幸せだなって。だから、名前が名前で良かった」
「私も、私も同じ。今の一二三だから好きになったの。だから、一二三の何もかも全部引っくるめて、大好きよ」

今はこの扉を開けることは出来ない。他の恋人たちのように、見つめあって抱き合って愛を紡ぐことは、まだ出来ない。それでも、扉1つ隔てたこの両側で想いを囁くことが、私たちにとっては確かな愛の形なのだ。

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