番外2 チョコバナナマフィン

友人に連れられやって来たそこは、独特の熱気に満ちていた。
フロアを埋め尽くさんばかりの人、人、そして人。その殆どは女性で、皆眼光鋭く、目の前のショーケースを見つめている。ここはバレンタインの催事場。ショコラを愛す女性たちの戦場である――とは友人の言だが、この光景を見るにそれもあながち間違っていないのかもしれない。誰もが自分の眼鏡に叶った一粒を求め、周りの誰よりも早くそれを手に入れようと、我先にと店員に声をかけていく。
その人混みと喧騒に気圧され、腰が引ける私。それとは対称的に友人はその目を爛々と輝かせている。

「じゃあ、私お目当てを買ってくるから!」
「うん、私はテキトーに見て回ってる」

言うが早いか、友人は目当ての品を求め人群れの中に突貫していった。その背を見送り、私は何の気なしに近くにあったショーケースを覗く。
磨きあげられたガラスの中で照明に照らされ、可愛らしい化粧箱に包まれたチョコレートはキラキラと輝いている。
綺麗だなぁなんて小学生並みの感想を抱きながらぼんやりと中身を見ていたら、店員のお姉さんに声をかけられた。

「よければ、こちらのご試食いかがですか?」
「あ、ありがとうございます」

小さく割られたチョコレートの欠片を受け取って口へ入れる。ミルクチョコだったようで、直ぐに舌の上で溶けて広がる優しい甘さに、思わず頬が緩んだ。

「美味しい…!」
「有難うございます!こちらは当店のショコラティエが厳選したカカオを使用しておりまして――」

店員さんの口上を聞きながら、ショーケースの中から試食した商品を探し出す。中央に並べられたトリュフやプラリネから少し離れた一角に、タブレットチョコが飾ってあった。
包装紙はバレンタインにふさわしい柄だが、それでも他の商品に比べれば少し華やかさに欠ける。それゆえか、値段も少しだけ手を出しやすいものだった。
折角ここまで来たわけだし、これぐらいなら買ってみようかな。
そう思って、私は店員さんに声をかけた。


「随分買ったね…!」
「今しか買えないからね!こんなのまだまだ少ない方だよ」

友人が両手に下げた紙袋を見て感嘆の声を上げた。ぱっと見た限りでも両手の指では足りない程度は買っているようだけど、これで少ない方だなんて恐れ入る。聞いたところによると、既に一度ここでの買い物は終わらせていて、今日はバレンタイン当日にしかないチョコを買うついでに、以前買って美味しかったものを追加しているらしい。ということは以前は以前で、少なくとも今持っているより多くのチョコを買っているはずで、総額幾らぐらい使ったんだろう、なんて俗っぽいことを考えてしまった。
私は今まであまりバレンタインに縁のない人生を送ってきたせいで実感がなかったけれど、これが毎年の恒例行事だというから世の女性たちは本当に大変だ。
催事場に設けられたイートインスペースで、限定販売されているチョコレートドリンクを飲みながら、これはなんとかというお店のチョコレートで〜と戦果を紹介する友人の話に相槌を打つ。
嬉々として語る友人は本当に楽しそうで、それになんとなく一郎の姿が重なった。ジャンルは違えど、好きなものに対する思いを吐き出すオタクというものは似通ってくるものなのかもしれない。
内心そんなことを考えている間に、ようやく一頻り語り終えたのか、友人は一度ドリンクを飲んで一息入れたあとで、私の持っていた紙袋に目を移した。

「それにしても、そっちも買ったんだね」
「あ、うん。試食させてもらったのが美味しかったから」
「そっか。じゃあそれ自分用? 誰かにあげる分とかは買わなくていいの?」
「あげる分?」

聞き返すと、友人は頷き、何かを思い出すように視線を泳がせた。

「うん。ほら、なんだっけ…前言ってたお隣に住んでる兄弟だっけ?その人たちにはあげたりしないの?」
「あー…うーん……どうだろう…」

その問いに、私は言葉を濁す。そんな様子に友人は首を傾げた。

「なんかあるの?チョコ嫌いとか?」
「いや、そういうわけじゃないけど…。多分だけど、飽きるぐらいにチョコもらうんじゃないかなって思うんだよね」

勝手な想像ではあるけど、それでも彼らは人気のある有名人なわけで、それこそ漫画のように3人分を合わせたらトラックいっぱいのチョコになったりすることもありえるかもしれない。…いや、流石にそれは盛りすぎか。それでも大き目の段ボールいっぱいぐらいには平気でもらいそうだ。そうなると、消費するのも大変だろう。
それなのに、チョコレートを渡すというのはむしろ嫌がらせの類になってしまうのではないだろうか。
そんな懸念が頭をよぎって、どうしても購入する気が削がれてしまう。
ということを、当たり障りのない部分だけ伝えると、友人は驚いたように目を瞬かせた。

「何それ、お隣さんってアイドルかなにか?」
「いや、一応そうではない、けど……似たようなもののような、そうでないような…」

アイドルかそうでないかと言えばアイドルではないし、彼ら自身もアイドルなのかと問われれば、即座にそれを否定するだろう。それでも、アイドル的人気があるのもまた否定できない。現に、ブロマイドとか売られているのを見たこともあるし。
煮え切らない答えを返す私を気にしたそぶりもなく、友人はチョコドリンクを一口飲むと、ふーん、と呟いた。

「よくわかんないけど、でもさあ、たくさんあったとしても貰えないのと貰えるのだったら、貰えた方が嬉しいんじゃない」
「…そうかなあ」
「だって仲いいんでしょ? 見ず知らずの人からならともかく、そんな相手から好意を形にして渡されて、それを迷惑だと思うやつがいるならそれはクソ野郎だよ」

でも、お隣さんはそうじゃないんでしょ?と続けられた問いかけには、それはそうだと力強く頷く。

「なら渡したら? 折角なんだしさ」

その言葉に、ほんの少しの勇気を与えられたような気がした。
ずず、と音を立てたストローから口を離し、空になったプラスチックカップを捨てるために友人は椅子を立つ。それに続いて私も立ち上がった。

「あのさ、もう一回ちょっと見て回ってもいいかな」

そう声をかけると、満面の笑顔とともに「もちろん!」という返事が返ってきた。


家へ帰って、買ってきたチョコレートと一緒に調達した材料をテーブルに広げる。
あの後、改めて催事場をぐるりと周り色々と迷った結果、少しだけ良いチョコを買って、それを使ってお菓子を作ることにした。
やはり普通のチョコだと食べ飽きてしまうかもしれないし、少しチョコ感のあるお菓子程度に納めたほうが無難な気がしたためだ。それになにより、どのチョコを買おうかと考えたときに私の脳裏に浮かんだのがいつもの夕食の光景で、私の手料理を美味しい美味しいと食べてくれる彼らの姿だったからだ。夕食と同じように、このお菓子も美味しいと言って彼らが笑顔になってくれたなら、それはとても幸せだなあと、そう思ってしまったらもう、これ以外の答えは出てこなかった。
幸い、催事場には手作りのための材料やラッピング用品なんかも揃ったコーナーがあって、そこで大抵の材料は調達できた。肝心のチョコレートは、結局、あの時試食をさせてもらったお店のタブレットチョコをもう一つ買って、準備は万端である。
まずは卵とバター、牛乳を室温に戻すため、冷蔵庫から取り出しておく。どの材料も冷えすぎていると分離してしまうので、ここはしっかりとしておかないといけない。オーブンを予熱モードにしてセット。薄力粉とベーキングパウダーは、分量を量ったあとで合わせてふるいにかけておく。タブレットチョコは細かくなりすぎないようにざっくりと包丁で割っていき、バナナの半分はフォークで潰し、半分は荒く切り分けた。
ここまで準備をして、バターの硬さを確認する。指で押してみて、すっと入るぐらいだと丁度いいのだけど、まだ少し硬かったので、バターをラップで包み手の熱で温める最終手段に出てしまった。あまり時間をかけすぎると夕飯づくりに影響してしまうので仕方ない。
良い感じに温まり柔らかくなったバターを、ボウルに入れてマヨネーズ状になるまで練り混ぜる。そしてグラニュー糖を入れて砂糖のザラザラ感が消えて白っぽくなるまでさらに混ぜ、そこに卵を割りいれてまた混ぜていった。腕がどんどん疲れてくるけれど、ここをおろそかにしてしまうと美味しいお菓子は出来上がらない。お菓子作りは意外と体力勝負なのだ。
バターと卵が分離することなくきれいに混ざったら、量っておいた薄力粉と牛乳を半量ずつ、交互に入れてダマが出来ないようにぐるぐると混ぜる。
基本の生地が出来上がったら、まずは潰しておいた方のバナナを入れて生地に馴染ませるようにしっかりと混ぜ、泡だて器からスプーンに持ち帰ると残りのバナナとチョコを加えて中身が偏らない程度にざっくりかき混ぜれば、後は型に移して焼くだけだ。
タイミングよく、オーブンから予熱完了のブザーが鳴った。急いで、買ってきたマフィン型に6〜7分目程度に生地を入れ、空気を抜くためにトントンと数回型をテーブルに打ち付ける。
天板に型を並べ、オーブンを25分にセットした。ブウン、と加熱が始まったのを確認してから一息つく。ラッピング用の袋とタイを用意しながら、失敗しなければいいなと思った。
使った器具の後片付けやらなにやらをしていると、次第にオーブンから甘い匂いが漂ってくる。途中で庫内を確認すると、ふっくらとマフィンが膨らんでいるのが見えた。これで失敗していれば、今から急いでコンビニにでも走ってチョコを調達しなければならなかったところだったが、この調子なら成功しているだろう。ふう、と安堵の息が漏れた。
オーブンの時間表示が減っていくのを見守る。焼きあがるまでは、あと少しだ。


いつものようにご飯を食べ終え、リビングのテレビをぼんやりと眺める。作ってきたはいいものの、改めて渡すのが恥ずかしくなってきてしまい、とうとうそのタイミングをつかめないままここまで来てしまった。
どうしよう、と頭を悩ます私の目にテレビから流れるバレンタイン特集の文字が飛び込んでくる。
今日はバレンタインですね!と話す明るいリポーターの声を聴きながら、この流れならいける気が私は口を開いた。

「バレンタインかあ…みんなはどれぐらいチョコもらったの?」

私の問いに、3人は顔を見合わせる。

「僕はもらってません」
「え!?嘘、三郎君絶対モテるでしょ。それに友達からとか、一個ぐらいあるよね…?」
「こいつ性格悪ぃからダチいないんスよ」
「黙ってろ低能!いないんじゃなくて、必要ないから作らないんだよ」

口をはさんできた二郎くんに噛みついて、三郎くんは私に向き合った。

「そもそも、よく知りもしない人間から口に入れるものをもらうのには抵抗があって…なので全て断りました」
「そ、そっか」

三郎くんは少し潔癖っぽいところがあるようだし、それも仕方ないのかもしれない。その言葉に納得しつつ、二郎くんへと目を向けた。

「二郎くんは?」
「俺は…、ダチからしかもらってないんで、5個ぐらい?」
「二郎くんでもそんなものなの…。下駄箱開けたらドサーって落ちてくるとかそういう展開はないの…?」
「それは漫画の読みすぎっスよ」

けらけらと二郎くんが笑う。なんだかこう、私が妄想たくましすぎただけなのだろうか、と少し不安になった。いやでも、二郎くんは不良をやっているそうだし、その辺りから怖がられてしまって渡されなかった可能性もあるのかもしれない。
たくさん貰うことを心配していたはずなのに、いつの間にやらあまり貰っていないことを心配する展開になっているなんて、昼の私が知ったら驚くだろう。
最後の望みをかけて、私は一郎の方を見る。一郎は顔が広いし、仕事の関係でもらうこともあるだろう。近所のおば様方にも概ね人気があるから、多分、貰う機会も多いはずだ。
期待のこもった私の視線を受けて、一郎は苦笑をした。

「まあ、そこそこもらったけど、食いきれる量じゃねぇし、施設とかに配ってきた」

その手があったかという衝撃、そして感動。あまりにも大人の対応が過ぎる。同い年だというのに、私との違いは一体何なんだ。
謎の敗北感に襲われて、私はがっくり肩を落とした。色々と思い悩んでしまったけれど、結局私が難しく考えすぎていただけじゃないか。
まあ、裏を返せば処理に困るほどではないということだから、つまり私が渡しても迷惑がられることもない。そうポジティブにとらえることにしておこう。というか、それならもう少しチョコ感のあるものにしておけば良かったのかな、と少しだけ残念に思った。今更の話になってしまうけど。
気を取り直して、私は持ってきた手提げからマフィンを取り出した。あまり気合いを入れると引かれるかも知れないと思って、ラッピングはシンプルに留めておいた。

「えーっと、一応バレンタインの贈り物のつもりなんだけど。良かったらもらってくれると嬉しいな」
「わ、あ!いいんですか!?」
「えっうまそう…これ手作りっスよね?すげー…!」
「おお、ありがとな!」

三者三様の反応を返して、それぞれマフィンを手に取った。「食べていいっスか…!」と真っ先に聞いてきたのは二郎くんだ。

「それは勿論良いけど…、お腹は大丈夫?」
「これぐらいなら余裕っス」

タイを解いて、マフィンを取り出すと二郎くんはぱくりと口を付ける。大き目の型を使ったつもりだったが、一気に3分の1程度が消えていった。流石男の子、一口が大きい。
今まで散々ごはんは作ってきたけれど、実はお菓子を振る舞うのは初めてで少しだけ緊張してしまう。味見もしたし、問題はないはずだと思うけれど、万が一ということもありえる。けれど私のそんな不安は、もぐもぐと咀嚼する二郎くんの頬がどんどん緩んでいくにつれて解消されていった。これは美味しい顔だと、言われなくても分かる。
ごくん、と二郎くんは口の中のものを飲み込んで、それから口を開いた。

「めちゃくちゃうまい…!」
「俺も一個貰おうかな」
「僕もいただきます」

二郎くんに続いて、一郎と三郎くんもマフィンの封を解いた。夕飯後だけれど、意外とみんなお腹に余裕があるようだ。

「これ、バナナが入ってんのか。うまいぜ」
「しっとりしてるし、チョコが大き目で、食べ応えがあって良いですね!」

一郎と三郎くんにも高評価をもらうことが出来て、心底安心する。

「おい、二郎!お前一人で何個食べるつもりだよ、お前だけのものじゃないんだぞ!」
「こういうのは早いもの勝ちって相場が決まってんだよ」

ちゃっかりと二郎くんが2個目に手を伸ばし、三郎くんに止められるよりも早くかぶりつく。ああー!と三郎くんが声を上げ、二郎くんは勝ち誇ったようにふふんと鼻を鳴らした。

「お前、せめて紙ぐらい外せよ行儀悪いだろ!」
「うるせえな、うまいんだからしょうがねぇだろ」
「口の中のもの飲み込んでから話せ!」

わいわいと騒ぐ二人の声をバックに、一郎はゆっくりと味わうようにマフィンを平らげていく。

「それにしても、ホッとしたぜ」
「何が?」

一郎が突然そう呟くものだから、私は首を傾げた。

「全然そんな素振りがなかったから、お前からは貰えねぇのかと思ってた」
「えっ、そうなの」
「二郎も三郎も、ちょっとそわそわしてたぞ」
「うそ、全然気づかなかった。言ってくれればよかったのに」
「男がそんなダセェことできるかよ」

そうは言うけれど、私の方もいつ渡そうとそわそわしていたし、もっと早く知っていればお互いに無駄な心労はなかったはずだ。
後から言っても仕方がないし、結果的にきちんと渡すことが出来たのだから、結果オーライとするべきだろう。

「来年は、もっとこう、ちゃんとしたのを贈るね」
「今年も十分ちゃんとしてるだろ?」
「いや、今年は無難な感じにしちゃったし。来年はもっときちんと準備するから、だから、来年ももらってくれる?」
「ああ、楽しみにしてるな!」

次は、もっと気合を入れたチョコを作ろう。もっとたくさん作って、いっぱい食べてもらえるようにしよう。そう心の中で決意する。
みんなの笑顔を見ると、胸の奥がじんわりと温かくなってくるような気がする。
勇気を出して、作って良かった。
私は背中を押してくれた友人に、心の底から感謝をした。

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