おそろしく正しい言葉

上司に押し付けられた――もとい頼まれた仕事を終わらせ会社へ戻る駅のホームで、草臥れた背中の知り合いを見つけ、私は迷わず声をかけた。

「観音坂くん、お疲れさま!」
「!?…ああ、お前か。お疲れ」

緩慢な動作でこちらを振り向き、そう応えた彼は私の勤める会社の営業マンである観音坂独歩。営業部の彼と総務部の私と、部署は違うものの同期入社の誼でたまに飲みに行く程度の仲だ。

「外で会うの珍しいな」
「今度やるイベントの打ち合わせがあってね。観音坂くんは外回り帰りでしょ?今日はこれで終わり?」
「いや、まだ片付けないといけない書類が残ってるから…それが終われば帰れるはず。お前は?」
「私は報告終わったら一応帰れる予定かな」

外出てる間に仕事増やされてなければ、と小さな声で続けると、ははっ、と乾いた笑いを返された。

「早めに帰れることを祈るか」
「お互いにね」

顔を見合わせて、はあ、と大きなため息をひとつ。社畜戦士の願いはいつだってささやかなものなのに、それが叶うことはごく稀なのである。
ふいに観音坂くんが口元を手で押さえた。くあ、と息が漏れて、欠伸をしたんだなと分かる。まじまじと彼を見てみると、成る程、疲労の色濃いその顔の、翡翠色の目の下にはくっきりと深い隈が刻まれている。…まあこれは特別今日に限った話というわけではないけれど。

「いつみても顔色悪いけど大丈夫?寝れてる?」
「ああ…いや、あんまり眠れてはないけど大丈夫だろ…多分。そう思いたい。体調崩したりしたらあのハゲ上司になんて言われるか…考えただけでも気が重い。体調管理ができてないのは社会人失格とかなんとか、散々言われるにきまってる…そもそも俺が眠れないのは誰のせいだと…、いやそもそも仕事が遅くて残業してしまう俺が悪いのか…?ここ最近部署の成績が落ちてるのも俺のせい、どれだけ残業しても仕事が終わらないのも俺のせい…俺のせい、俺のせい、俺のせい……」
「あー…まああんまり無理しないようにね。また今度飲みにでも行こう」

彼の部署のブラックぶりは他部署である私の耳にも届くほどだ。それに話を聞く限りでは彼はどうやら上司に目の敵にされているようで、やたらと雑用を押し付けられ、一人残業することも珍しくないのだという。
確かに、彼は雰囲気も暗めでお世辞にも誰もに好印象を抱かれるタイプとは言えないだろうし、時折小声でぶつぶつと何事か呟いているときは正直ちょっと近寄り難いし、私は丁度席を外していたから知らないけれど誰彼構わず女性を口説く友人がいるらしく女性にだらしないだとか散々な噂が立っているし、誤解を受けやすい人物ではあるんだろう。
それでも私は、彼が周りが思っているほどに問題人物とは思っていない。何かあればすぐに自分が悪いと考えてしまうネガティブな面や、酔った時に飛び出す暴言に吃驚させられることはあるけれど、どんなに膨大な仕事を振られても責任もってきちんとやり切ってしまうところとか、他の人が気付かないような細かいところに気を向けてさりげなくフォローをしているところとか、彼の周りが見えていないだけで素晴らしい部分がたくさんあるのを知っているからだ。
というか、もし私が観音坂くんの立場だったとしたら早々にこんな会社辞めている。なのにまだこの会社を続けられてる時点でもうすごい。めちゃくちゃすごい。そこらへん、がんがんアピールしていけば評価も変わるんじゃないかなあと思うけど、彼の性格からいって難しいだろう。
もうすこし、自分に自信が持てれば良いのになあ、と疲れ切った横顔をみて考える。けれどじゃあどうすればいいのか、良い解決策が思い浮かぶわけでもなく、私にできることと言えばガス抜きの手伝いぐらいなものか。

「今度、…そうだな。暫くは時間とれないかもだけど、いやでも、出来る限り作る、ように努力する。だから、俺なんかと飲むの、楽しくないかもだけど、お前さえ良ければ、是非」
「なにいってるの、私から誘ったんだから良いに決まってるでしょ。じゃあ大丈夫そうな日があったら連絡ちょうだい」

私に愚痴ることで、観音坂くんの気が少しでも晴れるなら飲みぐらいお安い御用だ。もう数少なくなってしまった同期と書いて戦友と読ませる相手を失いたくないという一心で、私は一も二もなく頷いた。どこか美味しいお店を探しておこう、と心に刻む。スマホを取り出し、スケジュールを確認し始めた彼を横目に、電車の時間を確認しようかと視線をあげて、私たちの近くで一人立っていたサラリーマンの男性が目についた。
少し草臥れたスーツを着た、どこにでもいる風な男性だ。ただ、私の目を引いたのは、彼の足元がひどく覚束ないところだった。
とんとん、と私は隣の観音坂くんの肩を叩く。疑問符を浮かべこちらを見た彼に、「あの人」と男性を指差した。

「なんか変じゃない?ふらふらしてるっていうか」
「ああ、確かに。酔ってるとか…は、ないか。平日の真昼間だし」
「ね、体調悪いとかならちょっと心配かも」

とはいえ、相手から声をかけられ助けを求められたならまだしも、見ず知らずの相手に自分から声をかける勇気は私にはない。もしかしたらただの酔っ払いという可能性だって決してなくはないわけだし。
観音坂くんもそのつもりらしく、二人とも男性からは距離を保ったまま、なんとなく注意をはらいつづける。もし本当に体調を崩しているようなら手を貸そう、と考えたところで、じりりりとベルが鳴った。どうやらもうすぐ電車が入ってくるようだ。
それを確認するためか、男性が私たちの方に顔を向ける。正面からその表情をみて、ぞわりと胸が騒いだ。
疲れ切った顔というなら、私自身も含め、嫌というほど見慣れている。多かれ少なかれ、働いている人間の顔には疲労の色が浮かぶのは当然だ。ただ、私がその男性に抱いた違和感は、その目の奥に一切の光がなかったことだった。覇気がない、というか。生気がないというか。そう、言うならば今にも死んでしまいそうな――。
電車が迫る。あ、と思った時にはもう遅く、ぐらりと男性の身体が線路の方へと傾ぐ。その後の凄惨な光景を想像し、私が思わず目を瞑ったのと、隣の観音坂くんが動いた気配がしたのはほぼ同時だった。
警笛を鳴らしながら、電車がホームに滑り込んでくる。けれどそれ以外の、例えば悲鳴だとか喧騒だとか、そういった類の音はいつまで経っても聴こえてこない。恐る恐る目を開くと、観音坂くんと男性が、ホームに座り込んでいた。観音坂くんの手がしっかりとスーツの背の部分をつかんでいて、恐らく、前に倒れようとするその人を、後ろに引っ張った勢いでそのまま倒れこんだのだろう。

「か、観音坂くん、怪我とかしてない…!?」
「俺は大丈夫…たぶん、この人も」

慌てて駆け寄って声をかけると、観音坂くんは普段と変わらぬ調子でそう答えた。
立ち上がる彼に手を貸そうとして、そこで自分の手がかすかに震えていることに気づく。今更ながらに、観音坂くんが動くのが少しでも遅れていたら、と思うと恐ろしくてたまらなかった。私の動揺を他所に、立ち上がった観音坂くんは、スーツについた砂を払いながら男性に何事か声をかけた。小さな声だったので、なんと言ったのか私からは聞こえない。ただ、声をかけられた男性はハッとした顔で観音坂くんを見上げ、そして、顔を手で覆うと肩を震わせた。電車のドアが開いて、降車してきた何も知らない人たちが、私たち3人を、不思議そうに、あるいは邪魔そうに一瞥しては避けて歩き去っていく。
未だ地面にへたり込んだままの男性を置いて、観音坂くんが「行こう」と私の手を引いた。

「え、え、いいの?あの人大丈夫?」
「いいから。あのままだと駅員に捕まって時間喰われるだろ」

電車に乗り込むと、すぐにドアが閉まった。振り返ると、確かに、何事かと駅員が男性に近寄っていくのが見える。
たった今、私の目の前で観音坂くんが人助けをしたというのに、車内は特別なことなんて何もなかったかのようにいつも通りだ。
まるで現実感がない。でも、さっき起こったことは確かに現実で、私の心臓は未だばくばくと、五月蝿いくらいに鼓動を続けている。

「あっ、手、突然悪い…!」

繋がれたままだった手に気づいた観音坂くんが、慌ててそれをほどこうとする。それより早く、私はもう片方で、上からその手を包んだ。

「は、え、いきなりどうした、」
「観音坂くん、すごい」
「え?」
「いや、ほんと、すごい…!かっこよかったよ…!!」

すごいすごい、と子供のように繰り返すと観音坂くんの頬がみるみる赤く染まっていった。本当はもうちょっとこう、伝えたいことはたくさんあるはずなのに、さっきから出てくるのはそれだけだ。
いやでも、ほんとうにすごいと思う。ああして、咄嗟に行動するなんて、誰もが出来ることじゃない。しかも、人一人の命を救うなんて。

「私、何にもできなかったのに。観音坂くん、人の命を救ったんだよ!?え、っていうかこれもうみんなに触れ回ってもいいんじゃない!?」
「いや、それはやめてくれ…!」
「なんで!?」

名案だと思ったのに、全力で拒否されてしまった。せっかく汚名返上のチャンスなのに!と食い下がろうとしたけれど、観音坂くんは頑なに首を横に振る。

「誰かに褒められるためにやったことじゃないし、俺なんかが人助けしたっていったってそれまでの評価が悪いから偽善者扱いされるだけに決まってる…」
「いやいや、そんなことないって!」
「とにかく、誰にも言わなくていいから…!俺は、その、別に会社の奴らに認められたいわけじゃないし、いや確かに多少は仕事もやりやすくなるかもしれないけど、今まで散々言ってきた奴らから今更態度を変えられたところで気味が悪いだけだしどうせそれも俺がまた何かやらかしたらすぐに元に戻るんだろ……というかそもそもそんな話誰にも信じてもらえないんじゃないか…?俺だって俺みたいなやつが人を助けたって言われても絶対信じない自信がある。どころか最悪お前が嘘をついてるなんて言われたらそれこそ目も当てられない…俺のせいでお前の評価まで下がったりしたら俺はお前にどう詫びれば…それもこれも全部周りから信用されていない俺が悪いんだよな…そう、全部俺のせい、俺の、俺の俺の俺の」
「ちょっと待って落ち着いて、観音坂くんは何も悪くない」

放っておくとどこまでも沈み込んでしまいそうな観音坂くんを引き留めると、観音坂くんはハッと我に返ってから罰が悪そうに頬を掻いた。

「…まあ、とにかく、俺はわかってもらいたい人にわかってもらえればそれでいいから。冗談じゃなく、お前が嘘つきって言われる可能性だってなくはないし」
そこまで言われてしまっては、私ももう黙るしかない。本当に、本当に勿体ないと思うけれど。
「そっか…うん、分かった。ごめんね、勝手に盛り上がっちゃって」
「いや、俺なんかのこと真剣に考えてくれたんだよな……俺の方こそ、なんか悪い」
「だから観音坂くんは悪くないから謝らないで良いって。会社の人に言ったりはしないけど、今度個人的に何かやらせてね」
「何か?」
「うーん、ほら人助けしたら警察から感謝状が出たりするんでしょ?あれみたいな感じで、『観音坂くんがすごかったで賞』みたいな」
「ははっ、なんだそれ」

少しでも彼の行動が報われて欲しいと思ってそう提案すると、観音坂くんは少し呆れたように笑った。
時折見せる少し強張った営業スマイルではない、それはとても自然な笑顔で。それを他の人にももっと知ってほしいと思う一方で、私しか知らないというのに少し優越感を感じてしまう。
この複雑な気持ちになんと名前を付ければいいのか、今はまだその答えを出すのは早い気がして、私はその感情にそっと蓋をした。


「そういえば、あの人になんて言ってたの?」
「ああ…別にたいしたことじゃないけど、」

自殺を思いとどまらせた上に、たぶん泣かせてしまうほどのことだから、よほど何かいいことを言ったのだろう。私の乏しい想像力ではまったくわからないけれど、ラップで鍛えた語彙力も駆使したに違いない。そんなことを考えて、好奇心のままにそう尋ねる。

「迷惑だから、死にたいなら電車じゃなくて車にでも飛び込んでくれって言ったんだ」

こともなげにそういわれて、思考が一瞬止まった。

「…えっ?」
「ほら、電車に飛び込まれたら事後処理とかで遅延するだろ。今遅れるのも困るし、帰る時まで止まったりしたら最悪だし、動いたとしても人がすごいことになるから考えるだけで憂鬱になるし。けど車だったら少なくとも俺にはなんの影響もないからな」

つらつらと話す、観音坂くんの言葉が頭に入らない。いや、正確には理解することを脳が拒否しているとでもいうべきか。
先ほどまで普通に会話をしていたはずなのに、今は彼がまるで違う言語を話しているかのような、根本的に会話が通じていないような違和感。
何といえばいいのかわからず、言葉に詰まってしまった私を、彼が振り返った。

「どうかしたか…?」
「…ううん、なんでもない」

どうにかそう絞り出して、私はなんとか笑顔を作る。
会社の中で私しか知らない観音坂くんがいるんだから、そのさらに深く、私の知らない彼だって当たり前のように存在するんだろう。その片鱗を垣間見てしまったような気がして――観音坂くんと知り合ってから初めて、私は彼のことを恐ろしいと感じた。

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