わたしは墓前で手を合わせている。
 馴染みのないあなたの名字が彫られた滑らかな墓石に、駅前の花屋で買った小さな花束を供えた。お線香とライターを買おうか一瞬迷ったけれど、ここに来る機会はきっと、これきりだろうと思って、やめた。
「荼毘くん」
わたしはあなたの、かりそめの名前を声に出してみる。本名を知ったのは、あなたに会うことがなくなって、しばらく経った後だった。そのことはもう世の中がぐちゃぐちゃになっていて、あなたはその渦中の人だった。わたしは、ただの、何の役にも立たない一般人だった。
 最後に彼を見たのは、避難所のテレビの中だった。荼毘くんは燃えていて、エンデヴァーが、彼の実父であるヒーローが、泣きながら彼を止めようとしていた。わたしは生きているのか死んでいるのかもわからない状態で周囲に怒りをぶつける荼毘くんを見て、ただ自分の手を握り締めることしかできなかった。周囲の人たちの沈痛な表情を視界に入れるのが恐ろしくて、ただ画面ばかりを見つめていた。みなさん、あの人ね、そんなに悪い人じゃ、なかったのよ。そんなことは口に出せるはずもなかった。

「あなたはお墓参りなんか来てほしくなかったろうけど。勝手に来ちゃった」
 わたしの声はぽつりと落ちる。周囲を林に囲まれた霊園は静かで、鳥の鳴き声だけが遠くで聞こえた。
 初夏にお墓参りをする人はそう多くないのだろう。人がいないのをいいことに、墓石の前に膝をつく。拝石は汚れもなく綺麗だった。定期的に彼の家族が足を運んでいるのだろう。霊園の端に作られたお墓には、きっと荼毘くん一人の遺骨しか納められていない。
 この場所を教えてくれたのは、ショートだ。彼を知らない人はいない。ナンバー2ヒーロー。エンデヴァーの息子で、荼毘くんの実弟だ。わたしは先週、偶然にショートを見つけ、人込みをかき分けて彼の手を掴んだ。「お兄さんのお墓の場所を教えてほしい」と突然言い寄ってきた胡乱な一般人に貌を顰めることなく、ショートはファンたちを一旦待たせると、この場所を教えてくれた。わたしの素性を聞くこともなく、ただ、整った字の書かれた手帳を抱きしめて、お礼を繰り返すわたしに向けて頭を下げた。
「荼毘くん、わたしね、もう幽霊なんて信じてないよ。あなた昔、『くだらない』って笑ったの、覚えてるかな」
 墓石に触れる。ひんやりとしていて、滑らかで硬い。この下に荼毘くんの遺骨が埋まっているのだろうか。ひそやかに行われたであろうお葬式のことを想像してみる。荼毘くんの骨は、宝石のように美しい。信じられないような高温に耐える彼の骨の構造はわたしとは異なっていて、皮膚を取り払ったあとにもきらめいている。
 わたしに鋭い爪と牙があったら、この墓石を倒して、拝石を持ち上げて、あなたの遺骨を盗んでしまったかもしれない。そうして宝石をも嚙み砕く牙で、あなたの骨を齧るのだ。
 幽霊を信じていない荼毘くんは気狂いのようなわたしの行動をどこからも見ていないだろう。わたしは彼がもうどこにもいないことを知っているのに、呆れたような顔で笑う男の姿を忘れられずにいる。恋人ですらなかった、愚かな女に兄の墓標の場所を教えてくれたショートのことを思えば、爪と牙があったって、この静かな墓標を荒らすことはできないのに。
「荼毘くん。もし、信じてなくたって、幽霊になっていたら、あなたきっとここにはいないよね」
 好きなもののところに行くだろう。わたしだったらそうする。好きだったケーキ屋さんのウインドウに張り付いて、食べられもしないケーキを覗くだろう。見ているだけでしあわせになるから。荼毘くんは、燈矢くんは、家族の姿を見に行くだろう、そんな気がした。
 わたしは幽霊じゃないけど、あなたが好きだった。あなたが幸せそうにしているところなんて、見たことはなかったけど、今じゃどこに行ったって見ることもできないけど、あなたが確かに存在していたことを思い出したくて、こんなところにまで、来ている。
「とんでもない女だって、引かれちゃうかも。あなたを嫌な気持ちにさせたくないから、わたしがあなたに会いに来たこと、知られなくてよかった、って思うの」
 あなたはここにいるけど、どこにもいない。
 名前もない、行きずりの関係だった。あなたは詮索を嫌っていたから、わたしはあなたのことを何も知らなかった。ただ、狭いベッドで一緒に眠ったときに、寝ぼけたあなたが伸ばした指先が燃えるように熱かったこと。それから、細められた瞳に滲んだ涙が、流れる前に蒸発してしまったことだけを鮮明に覚えている。
あなたの手を握ってあげたかった。あなたの涙に口づけをしたかった。身体を重ねることはできても、わたしがあなたに触れることは許されていなかった。わたしが勝手に、そう思い込んでいただけかもしれない。わたしたちは恋人でもなく、対等でもなく、ただ、荼毘くんは気が向いたときにわたしを呼んだ。わたしはそれがうれしかった。好かれてもいないのに、嫌われたくなかったのだ。子供みたいに、あなたのご機嫌をとれると思っていた。
「あなたのためにぜんぶ、投げ出して、みたらよかった」
 わたしのすべてを投げ出したって、荼毘くんの苦痛は少しも埋まらなかっただろう。彼には志を共にする仲間がいたし、命を擲って彼を止めてくれる、家族もいた。
わたしは彼の世界がぐちゃぐちゃに乱れている時だけ存在を許されていただけの不要なピースだった。どこにも嵌らないことはわかっていたのに、彼が何度も誤った形のわたしを手に取ることがうれしくて、間違っているのだと口に出せなかった。荼毘くんは、不要なピースを避けて置かない人だった。だから何度も手に取って、それが間違いだって気づいて、ちょっとだけ悲しい顔をするような、人だった。手に取ってくれてうれしかった。それだけで、間違っていても、彼の人生に全く不要だったとしても、それでも、彼の傍にいられたらよかったのに。
「避難所から飛び出して、燃えているあなたのそばに、少しでも近づけばよかった。あなたに気付いてもらえなくたって、熱くて溶けてしまったって、わたし、そうしたら、……幽霊に、なれたかも」
 溶けた体を捨ててしまえたなら、あなたを抱きしめてあげられたかもしれない。あなたのことを本当に大切に思っていて、あなたも大切に思っている人たちとは、全然違うけど、それでも。怯えとか、情けなさとか、ぜんぶ燃やしてもらえばよかったのかもしれない。
「だびくん」
 わたしは冷たい墓石をもう一度撫でる。つめたくて、かたい、無機物の手触りが返ってくる。ここは静かで涼しい場所だ。うつくしい骨はわたしの想像だけれど、彼の欠片がこの場所で眠っているのなら、その眠りは深く凪いだものであってほしい。
 ハンカチで墓石を拭いて、もう一度手を合わせた。供えた花束は持って帰ることにする。この場所が知られることは彼の家族の望むところではないだろうから。
「あなたはきっと天国にはいかないし、生まれ変わりも信じていなそうだから、今日、ここに来られてよかったよ」
 幽霊はいないし、深い眠りについた彼に、こんな言葉は届かないだろうから、わたしは鼻水を啜って、望まれてはいないだろう言葉をもう一度口にする。
「あなたのこと、好きだった」


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