出来心だった。それは、ほんの一瞬の。

「まじかよ、」
思わずこころよりも外側に溢れた愚痴は、白くなって誰もいない廊下に零れる。こんなにも寒いのに。ざあざあと降り注ぐ雨に、息を吐いた。自分が天気予報を見ないほうの人間であることを、人生で何度目になるのかはわからない、けれど、いや、だから、恨んだ。青よりも黒に近い紺色の制服の上から、体を擦る。コートはまだ着ていなかった。
たぶん、認めたくなかった。
やってくる冬を。あたしがこの制服を身にまとえるのも、あと数えるばかりの月日でしかないことを。だって、かわいいでしょう。制服。かわいいわたしでいられるでしょう。学生、というわかりやすい定義に縋って、甘えていられるでしょう。うしないたくない。この可憐さと、脆弱さ、を。なんてね。黒に映えるこの赤いスカーフがすごく、好き。だから、隠れてもかなしくならないように。こうして朱いマフラーを巻くことにしている。首元だけが、あたたかい。どうにも冷たい夜。
そうだいっそ、雪が降ってくれたらよかったのに。

と、どうしようもないことを思ってみても一向に雨はやみそうにない。こうして立ち尽くしていても、手元にぽん、と傘が現れるわけも―知っていたけれど―なかった。此処からコンビニは少し遠いんだよなあ。それから、あのコンビニの傘は少し高い。うーん。こんな日に濡れて帰ったら、風邪をひくことは目に見えているし、こんな時期に風邪をひくことが許されると思えるほど、私はばかではなかった。そもそもばかだったら、こんな時間にこんな塾のエントランスで立ちすくむこともなかった。あ、ばかだったら良かったのかもしれない。馬鹿は嫌だな。おばかくらいかな。
勉強は得意だった。というか、他に得意で特異なものは何もなかった。あたしには。あたしは点数化されたかった。だって、わかりやすいから。平均がわかるから。平均が超えられるから。いつかは一位になれるから。
だから、このモラトリアムを、いつまでだって謳歌していたかった。

それも、この冬を超えれば、おわる。

それがたまらなく嫌で、嫌で、仕方なかった。ずっとこの制服を、着ていたいのに。おばかだったら良かったのかもしれない、なんて嘘だ。あーあ。相当にばかだ、あたしは。また、白い息が零れた。さっきよりも、長めに。
すこし、覚悟を決めた。濡れて帰ろう。走ろう。ばかは風邪をひかないらしいから。と、靴棚から自分のローファーを取り出そうと意を決した時だった。

傘、
だ。

目の前に、正しくは自分の靴棚から数えて上に1つ、右に8つ進んだ先に。小振りのこうもり傘が無造作に引っかけられていた。ごくり。耳の奥でなった唾を飲み下す音に、ああ、あたしは傘がさして帰りたいのだ、と実感する。
この塾に、友達はいなかった。知り合いさえもいなかった。みんな、自分の点数と、どう仲良くするかにだけ必死なのだ。此処では。もちろん、あたしも。
だから、繰り返すけれど、この塾に、友達はいなかった。

出来心だった。それは、ほんの一瞬の。

あたしはその傘を手に取った。心臓がどきどきして、身体がざわざわした。あたりがやけに静かな気がした。視線を泳がせるけれど、誰もいなかった。名前も知らない誰かの傘を。あたしは誘拐することにした。冷たくなった傘の柄を、掴んだ。はやく、はやく帰ろう。一歩踏み出そうとしたけれど、むくりと湧き上がってくる罪悪感が。足を重くした。そのとき。

ざわ―――、と廊下の奥からいくつかの声がした。

やばい。

白くなった頭は何を思ったのか、あたしに、鞄の中から急いで愛用している付箋とボールペンを取り出させた。すら、と、そこに「ごめんなさい」が刻まれる。何してるんだろう、と思いながら、それを靴箱の内側に貼り付けてから、あたしは逃げるように玄関を出た。

息を吐き出し、こうもり傘を開いた。
真新しくはない、けれど、年季が入っているわけでもないそれが、あたしから雨を弾いた。ぽつぽつと傘と雨が奏でる音に、動悸がひいていく。妙に冷静になる。さむい。けれど、濡れることなく、帰れるのだ。そのことにひどく安堵しながらあたしは帰った。靴だけが、足元だけが、傘をさしていても浸水してつめたくなった。


一週間が経った。
毎週通うこの場所に、今日はあの傘を持って来た。返そうと思っていた。だって、これが手元にあっても、あたしにはもはや何の得もない。今となっては。あの一瞬、傍にいてくれただけで十分だったから。自分がなかなかに最低な人間であることを、はじめてこんなにも自覚して。心臓があの日から、きりきり痛むような気がした。

今日はひときわきりきりしながら、あの靴箱の周りに誰もいないことを視認して、静かに駆け寄る。ここに、こいつをひっかけて、おしまいにするんだ。あたしの出来損ないな犯罪を。―――と、思っていた。

その靴箱はすこしだけ、開いていた。

そのすこしだけ、を、すこしだけ不思議に、不審に思った。きりきりしている心臓が、はやくなる。あたしは、その靴箱を開いて、覗き込んだ。

「ゆるしません」

そこにあったのは、あたしが愛用しているあの付箋と色違いの付箋に、走るように書かれた6文字だった。

思わず、乾いた笑い声が漏れた。小さく咳をして、誰もいないことをもう一度確認する。付箋を、ぺりりと剥がす。あの真っ黒で無機質な傘を相棒にしていることと、少し無骨なこの文字たちから、きっとこの言葉の向こうにいるのは彼女、ではなくて彼。なのだと思う。確信する。何故だかわからないけれど、きっとやさしいひとだと思った。付箋の向こうの悪人に思いを馳せて、わざわざ言葉をくれたこの人のことを。そうだといいな、と願った。

「許してください」

と、新しい付箋を貼りつける。あたしの付箋は蛍光ピンクだから、きっとすぐに気づいてくれる。あたしに向けられた黄色い付箋は、そっと自分のノートの一番後ろのページに貼り付けておいた。こうもり傘の柄に、あたしが好きな飴玉をいくつか詰め込んだ、100均で買った小さな包装用の袋をリボンでぶら下げておく。たぶん風邪をひいているだろうから、ぜんぶのど飴にしておいた。


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