東京は明るすぎて、星が見えない。だなんて迷信なのだ。
頭上に輝く月と星を眺めながら、これっぽっちもかろやかとは言えない様子で、自転車のペダルを漕ぐ。
きれい。冷たい空気に彼らはよく映える。雲でさえ、覆い隠せない。むしろ、照らされている。

そんなことを思っていると角から飛び出してきた自転車とぶつかりそうになる。
あぶない。すれすれで避ける。
月見運転と大音量ヘッドホン。
ただそれだけで、にんげん、簡単に死ねるものです。

あーあ。
なんだか。やる気がしないな。
喉の奥で呟いてみる。声にならない、声。
ただでさえ重いペダルが余計に重くなる。
でも、生きることに、正直、やる気とか気力なんて要りません。
空がきれいな夜は、ひとりで空腹の夜は、なんだか憂鬱だ。
コンビニで買った、ぬるくなりかけのご飯。美味しくはない。けれど、食べないと死んじゃうから。
なんていうかさ。これがないと死んじゃう、みたいなもの、他にないのか。
幸せになること、なんてだいぶ前に諦めてしまった。

あたしには、噛み締める幸せも、ひけらかす不幸もないし、これからも別に必要ないと思っている。

そのくせ、ひとりはさみしくていやだなんて。ね。

東京は、ほんとうのところ静かな街だ。少なくとも、あの日上京してくるまでの日々より。
ヘッドホンから流れる歌がうたう、きみがいなくなったら、あたしはどうなるのかな。
そんな、きみが、あたしにはいない。から、あたしはどうしたらいいのかな。
別に、どうってことはないのだけれど。

ああ、寒いな。自転車を漕ぐ。
スピードは上がらない。はやく帰って、ご飯を食べよう。

自転車を止めて、鍵を回して、電気をつける。
蛍光灯が灯るまでの三秒間の暗闇が、慣れなくて、今も少し怖い。
ただいま、

「おかえり」

揺れる暗闇、しんとした部屋に、こぼれる。弾むようでいて、どこか低い。声。
気のせい、だと思っていたのだけれど。
明かりがついた部屋の真ん中に、ふわりとしたこがねというかしろがねというか。優しいひかりの色。
そんな色をした髪が揺れていた。

つまりこれは、不法侵入というやつでしょうか。

「え、と、」
「お邪魔してます」
「あー…」

私が戸惑って上ずった声を出すと、そのきれいな顔立ちによく似合う、うっすらとした微笑みで彼はそう言う。どこかで、会ったことあるような、気が、しないでも、ない、けれど。

「どちらさま、でしたっけ?」
「名前、はまだないな」
「え?」
「月、から、来たから」

つき?あの、空にあるやつですか?と声に出していたらしい。彼はうなずく。
かなしいことに、至って真面目な表情だった。
これは、やばいやつなんじゃないだろうか。
いや、もしかして、あたし、頭がおかしくなったのだろうか。

「しばらく地球偵察任務で、お世話になります」
「ちょ、ちょっと待って。何それ」
「これからの月のための調査。遠征地が、たまたまあんたの家の住所、つまりここだったんだ」

深々とお辞儀する彼を遮ってみたけれど、紡がれた言葉にあたしの手が止まった。
いやいやいやいや。そんな馬鹿な。そんなSFな。
月に生命体はいないんだってアポロ何号かが証明したんだ、だいぶ前に。
あー、アポロ食べたい。ちがう。落ち着け。
たとえ普通の人間でもだ。この家に勝手に上がりこまれる筋合いは、ない。

「お帰りいただけませんか?」
「なんで?」
「いや、なんでとかじゃなくて、」
「一応あんたが一番望む容姿、音声になっているはずなんだけど」

それで、好みだったのか。いや、だから、違うってば。

いらない。いらないんだ、こんな非現実。あたしには、退屈がちょうどいいのだ。
あたしには、噛み締める幸せも、ひけらかす不幸もないし、これからも別に必要ないと思っている、のだから。
夢ならはやく覚めろ。はやく。じゃないと、終わっちゃうよ。見たかったドラマも。
いや、この一大事に何を思っているのだろう、あたし。
混乱。
黙っていると、彼はすっと歩み寄るようにしながら、喋る。

「別に何もしないし、邪魔もしない。ただ、」

一歩、また一歩と近づいてくる、彼からは金木犀のような香り。
目と目が合う。きれいな、目。逸らせなくなる。動けなくなる。

「教えてよ、あんたのこと」

紡がれた言葉は、驚くほどすとんとあたしの中に落ちる。
それを見透かしているのか、いないのか、彼はまたきれいに笑う。
その笑顔は確かに、この世のものとは思えないくらいに、眩しかった。

とりあえず、鍵を閉めて、TVをつけよう。ため息。それからだ。
大体、地球人ともまともな会話ができないあたしが、
地球外生命体とまともに話ができるはずがなかったということ。

スイヨウだけは贅沢するんだ

 
modoru

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