背後で鬼道の手が忙しくパソコンのキーボードを走る音がする。
俺はその傍らで、一定感覚で時を刻む腕時計とにらめっこしていた。

扉を見ては、時計を見て。そんなことを三回は繰り返しただろうか、鬼道がおもむろにキーボードから手を離し、 呆れたように溜め息を吐いた。


「…佐久間。少し落ち着いたらどうだ」

「そ、そうだな。いや…でも、少し遅くないか?」


もう約束の時間を十分過ぎているぞ、言いながら自分の眉根に皺が寄るのを感じる。
鬼道はそれでも落ち着き払った様子で言った。


「大方、道に迷ってるんだろう─そら、噂をすれば、だ」


言いかけた彼の言葉が来客を知らせる小さなブザーの音に掻き消される。
俺は思わず勢い良く扉を振り返った。

パシュン─いつもの開閉音をバックに、扉が左右に開く。
部屋に入ってきたのは、三つ編み瓶底眼鏡の女子生徒だ。だが、うちの─帝国の生徒じゃないことは十分理解していた。


「やっと来たか。遅いぞ」

「遅いぞ…じゃないでしょーが!こんな朝イチで呼び出して…お陰でこっちは仮病で学校欠席ですよ!」


鬼道が言うなり、女生徒─帝国生に変装した依織は、床のカーペットを踏み締めて吠える。
察するに、わざわざ学校を休んできたらしい。まぁ、鬼道が指定した時間を考えれば仕方ないだろうが。


「おまけにこんなベタな変装させて、ホントは楽しんでるんじゃないでしょうね!?」


言うと彼女は乱雑に三つ編みを解き、分厚 い眼鏡を外して鬼道に突きつける。
すると、いつもの見慣れた依織が鬼道をこれでもかと言うほど怒りを込めて睨み付けた。

しかし、鬼道は「仕方ないだろう」と特に悪びれる様子もなく肩を竦める。


「うちの生徒…万が一シードたちに顔を覚えられてはまずいだろう?」

「それは、…そうですけど!」


そう、まだ正式に選手でないとは言え、現在進行形でフィフスセクターに反乱している雷門の生徒がシードに見つかったら事だ。
最悪、フィフスにスパイとして入り込んでいるアイツに被害が及ぶとも限らない。念には念を…少しは遊び心も混じってるだろうが。


「まぁまぁ、結構似合ってたぞ」

「嬉しくないですよ、っとにもう!!」


フォロー半分、面白半分で、少し乱れた頭を撫でると、依織は犬か猫が威嚇するようにシャアッと歯を剥く(訂正、面白八割)。

少しして、落ち着いたらしい彼女は諦めたように溜め息を吐いた。
そのタイミングを見計らったらしい、鬼道が、話を切り替えるために小さく咳払いをする。


「さて─依織」

「…何スか」


鬼道の声のトーンが変わったのに気が付いたのか、俺の手を退かした依織は不機嫌そうに─しかし、真面目な声で返す。
まだ言いたいことはあるんだぞ─明らかにそんな不満を我慢した顔だった。


「今日お前を呼び出したのは、他でもな い。…佐久間」


短く声を掛けられ、頷く。
俺は懐にしまっていた、手のひら大の茶封筒を依織に手渡した。
イタリアサッカー協会からの、ライセンス一次合格通知と─あちらへ渡るための、飛行機のチケットとパスポートだ。

それを受け取った 依織は、その中身を覗き込むと数度まばたきを繰り返して鬼道を見上げる。


「…待ちくたびれましたよ」

「そう言うな。─書類審査は通った。あとは、お前が全力を出し切れば良いだけのことだ」


ゆっくりと依織に歩み寄った鬼道が、彼女の細い肩を叩いた。 大きなサングラスの向こうで、鋭い目が依織を捉える。


「思う存分、暴れてこい」

「…言われなくとも」


小さかった頃はあんなに素直で可愛かった依織が、鬼道と同じような不敵な笑みを浮かべる。
いや、同じような…と言うより、あれはもうほとんどコピーだ。血も繋がっていないのに、過ごした時間が濃いと自ずと似てくるものなんだろうか?

しかし、依織もあんなにたくましく成長して。十年前までアイツや俺たちにくっついてお姉ちゃんお兄ちゃんと言っていたのが嘘のようだ。
…あ、何だろう、少し寂しくなってきた。


「…つーか、有兄さん」

「何だ、依織」


ふと依織が、思い出したように笑みを引っ込める。
先程預けられた封筒をヒラヒラ振って、彼 女は鬼道に問いかけた。


「これ、出発はいつなんですか?」


あ、と思わず唇を引き結ぶ。
鬼道は今日の天気を答えるように、さらりと答えた。


「明日の夕方だ」


一瞬、依織の表情が真顔のまま凍りつく。
しばらく置いて、彼女は口許をプルプルとひきつらせて地団駄を踏んだ。


「だっ…から、何でいつもそうギリギリなん ですか!!」

「大人にも色々事情があってな。まぁ、諦めろ」

「納得いかねぇぇ!!」


こういう、全力で突っ込むところはアイツに似てきたよなぁ。
とりあえず今日のことを不動に報告(と言う名の自慢)することに決めて、俺は天井を振り仰ぎ防音の効いた理事長室で鬼道に怒りを叫ぶ依織を眺めた。