「え…部室が使えない?」


放課後、サッカー棟。
目を丸くした神童を筆頭とする二年生たちに、春奈は申し訳なさそうに眉を下げた。


「ええ…どうも回線の調子が悪いみたいで、ドアが開かないのよ。すぐ業者を呼ぶから、直るまで他の部屋を使って頂戴」


言うと、春奈は職員室へ向かうのか足早にサッカー棟を後にする。
「どうする?」かしかしと頬を指で掻いた霧野が、神童に尋ねた。


「ミーティングルームを使うか?」

「え、あそこで着替えるんですか?」


霧野の言葉に速水が不満そうな声を上げる。
「せめてロッカーがある部屋の方が…」もごもごと続けた速水に、神童はしばらく考えてから顔を上げた。


「そうだな…貴重品なんかを入れた鞄を放っておくのも忍びないし。今日は二軍の部室を使おう」

「二軍の部室か〜。しばらく入ってないよな」


「一年の時以来だな」頭の後ろで手を組んだ浜野に、何か思い出すことでもあったのか、倉間が前髪から覗く三白眼を細める。

サッカー棟のどの部屋も、頻度はそれぞれだがマネージャーが掃除していることは承知済みだ。
しばらく中に入らなかったとは言え、埃まみれと言うまではないだろうと検討を付けて神童は二軍の部室の電子ロックを外した。

─後に彼らは語る。
この時点で、いつも解放されている二軍の部室が電子ロックを外さなければならない状況になっていることに気付けば、どれほど良かっただろうか─と。


「え」


左右に扉が開くと同時に、驚きに見開かれた目と視線が合う。
そのまま、数秒硬直。細い線が、白い肌が目に焼き付く。

沈黙を破ったのは絹を裂くような悲鳴だった。


「キャ―――――ッ!!」

「ふぐうッ!!」


全力投球されたクッションが、神童の整った顔にめり込む。
彼の体が仰向けに倒れるのと同じく、扉は何もなかったようにその口を閉じた。


「し、神童ォ!?」

「おい、大丈夫かよ!?」


バターン!と豪快に倒れた神童の元へ慌てて四人が駆け寄る。
「だ、大丈夫…」神童はよろめきながら起き上がったが、その鼻は真っ赤だ(ついでに涙目だ)。


「ちゅーか、一瞬しか見えなかったけどさぁ」


神童を助け起こしながら、ふと浜野が今更のように口を開く。
ギクリとした四人に構わず、言葉は続いた。


「今のって、鷹栖だったよな?」


キュッとそれぞれの口が真一文字に結ばれる。

あの一瞬中に見えたのは、確かに自分たちの後輩である依織だった。
しかし問題なのは彼女の状況である。


「マズいことしちゃいましたよ…」


顔色を青やら赤やら忙しく変えて、震え声で速水が呟いたのも今回は無理はない。

垣間見えた依織は、下はスカートで上はワイシャツを八割ほど脱いだ格好だった。
とどのつまり彼らは、フィクションの世界では王道な『着替えシーン』に鉢合わせてしまったわけである。


「……あれってヌーブラかな」

「今気にするべきはそこじゃねーだろ!」


褐色に朱を混ぜた倉間が叫ぶのと、呟いた浜野が視界からログアウトしたのはほぼ同時だった。

─ばちこーん!!


「はっ、浜野!?」


迸った電流に浜野の体が文字通り吹き飛ぶ。
完全に延びきった彼の足元に、コロコロとサッカーボールが転がっていることに気付いた四人は、油の切れたロボットのように背後を振り返った。

─修羅がいる。
感想はそれに尽きた。


「あっれ〜?おかしいなァ…。何か今、ものすッッごい不快な言葉が聞こえた気ィしたんですけど」


キチンとユニフォームを着用し、振り上げた足はそのままに、依織がかつてないほどねちっこい声で言う。
声は笑っているが、濃い影の落ちた顔は全く笑っていない。

隣に立ち竦んだ速水から魂が抜けかけているのを感じながら、倉間が震える声で言った。


「お、おま、お前、何で二軍の部室に…」

「二軍の部室は先月から女子専用の更衣室になってますけど?」


間髪入れず答えが返ってくる。

─そう言えば、マネージャーたちはいつの間にかジャージに着替えていることがあるが、あれは二軍の部室を使っていたからだったのか。
頭の隅で素朴な疑問が解消された。


「あ、えっと、その、鷹栖ってあんな女子っぽい声も出せるんだな「はい゙?」あ、何でもない」


濁点の付いた返しに霧野も黙り込む。
先程まで耳に残っていたあの甲高い悲鳴は本当に彼女の物だったのだろうかと、疑ってしまうほどだった。


「あ、は、浜野?」


ふと、復活した浜野がそろりと立ち上がり、二軍の部室の扉を開ける。
しかし、当然ながら中には誰もいない。「何してんすか」と、依織のドスの効いた(あるいは効きすぎた)声に怯みながらも浜野は空っぽの部屋を指差した。


「い、いや…実はさっき見たのは鷹栖の双子の妹で、お前とはまた別人みたいなオチかな〜と…」


浜野の視界が180度回転する。
足払いを掛けられたことを理解した次の瞬間、彼は強かに床に顔を打ち付けた。


「ざ〜んねんでしたぁ…今もさっきも、私は一人だけですよ」


にっこり─依織の唇が弧を描く。
だが、笑顔と言ってもその場が和むような優しいものではない。
言うならば、悪魔のような─


「さて、先輩方」


地を這うような声に自ずと背筋が延びる。
小傷のついた手のひらを目一杯広げて目を細めた依織に、神童は久しぶりに本気で泣きそうになった。


「何か、言い残すことは?」


─春奈が職員室からサッカー棟に戻った頃には、五人の頬にはそれぞれ季節外れな赤い紅葉が咲いていたとかいなかったとか。