大きく息を吸い込み、密やかに吐き出す。
扉一枚隔てた向こうで、優一と依織の声が聞こえた。
優一は、弟が本当の気持ちを押し殺していたのを分かっていたからこそ、ああ言ってまで彼を病室から追い出したのだろう。
その結果、彼はフィールドに現れた。兄の気持ちに報いるため、自分のサッカーをするために。
「(結局、兄さんには敵わないってことか…)」
やや自嘲気味に、剣城は少し口許に笑みを浮かべる。
『─はい、大丈夫です。剣城なら、きっと』
彼女のあんな穏やかな声だって、初めて聞いた。
一体、どんな表情を浮かべているのか─頭の隅で想像しながら、取っ手に手を掛ける。
「あ、おかえり京介」
「…うん」
視線をこちらに向けた兄に穏やかに微笑むと、依織が驚いたようにまばたきした。
試合中も同じような顔してたな─思い出してみると、何だか余計可笑しな気分になる。
「お前もいつもそういう顔してりゃ、クラスでの受けも良くなるだろうに…」
「鷹栖に言われたくねーよ」
そう言う驚きか。
ボソリと言った依織にピシャリと言い返すと、優一が楽しそうにくすくす笑った。
「やっぱり京介、クラスで浮いてるんだ?目付き悪いし…」
「兄さん!」
「そりゃーもう」
これが兄の前じゃなかったら、ニヤニヤしながら悪乗りする依織を一つ二つ小突いたところだろう。
しかし彼女は優一がいることで剣城の行動が制限されることを承知しているのか、彼をからかうように言葉を続ける。
「その上愛想もないから、不良と勘違いされてますよ。クラスの奴らとかもビクビクしちゃって…」
「でも、依織ちゃんは友達でいてくれてるんだろ?」
にっこり笑った優一に、依織のニヤニヤ笑いが引っ込んだ。
しどろもどろする剣城に一瞬目をやり、彼女はもぞもぞと居心地悪そうに椅子に座り直す。
「……まぁ、はい。そうですね」
「ふふ。そっか」
本人には友達だと豪語するくせに。
途端、何だか大人しくなった依織に、剣城は呆れ半分、面白半分で苦笑を浮かべた。
「な、に笑ってんだ剣城、このやろう」
「別に」
つっかえながらもジト目でこちらを見上げる依織から顔を背け、剣城は手の甲で口を押さえる。
優一が楽しそうに自分たちを眺めているのが、視界の隅に写った。
「いつも悪人顔の奴が、人のこと愛想もないとか言えんのかと思っただけだ」
「だぁれが悪人顔だ、誰が」
ひくりと依織の口許が持ち上がる。
その顔が悪人顔だということを、彼女は自覚していないのだろうか。
「でも確かに、依織ちゃんは笑ってた方が可愛いと思うな、俺は」
「は?」
思い出したような優一の言葉に返ってきたの声は、二つ。剣城と依織の声である。
依織はポカンと目を丸くした後、我に返ったように首を激しく横に振った。
「い…いやいやいや。何言っちゃってるんですか優一さん」
「え?本当のこと言っただけだよ。依織ちゃんはさっきみたいに笑ってた方が可愛いって」
さっきみたいにって何だ。
剣城の中で、もやっとしたものが広がる。
「(…もしかして、あの時か?)」
あの、扉越しの穏やかな声。
あの時、彼女は笑っていたのだろうか。いつもの本心が見えないニタリ顔ではない笑みを、優一に見せたのだろうか。
「な、京介もそう思うだろ?」
「へっ?」
自分の口から間の抜けたすっとんきょうな声が漏れる。
剣城は思わず、ギョッとした顔でこちらを見た依織をちらりと伺った。
「え…あ、いや、えー…」
「ああ、良い、考えんな!」
見たことのない、彼女の笑顔。
想像が固まる寸前、依織はこの雰囲気に我慢出来なくなったのか、弾かれたようにパイプ椅子から立ち上がる。
「もう時間も遅いんで、帰ります!」
「そうかい?また来てくれよ、依織ちゃん」
「っ〜はい!」
一瞬迷った後、依織は結局頷いた。
「またな剣城!」振り向くことなくそう言い残した依織は、勢い良く病室から飛び出す。
しかし扉が閉まる間もなく、廊下で何度か聞いたことのある声が彼女を呼び止めた。
「あら依織ちゃん、何だか顔が赤いわよ?風邪?」
「ダイジョーブですッ!」
バタバタとスリッパの音が遠ざかっていく。
優一はにこにこと笑いながら、小首を傾げて弟を見やった。
「やっぱり可愛いよな、依織ちゃん。な、京介」
「………」
剣城は否定も肯定もしない。
ゴニョゴニョと何か呟きながら俯いてしまった彼に、優一はやはりくすくすと楽しそうに笑った。