猫、帰す

俺はニヒルな猫。
雷門中に代わる新たな寝床を探して旅をする、風来坊だ。

が、そんな旅にもついに最大のピンチが訪れた。


「ぶぐぐるる…(腹が減ったな…)」


そう。何を隠そう、実は俺は朝飯のあとから何も食っていないのである。
野良は食わねど高楊枝と言う言葉はあるが、腹が減っては縄張り争いは出来ぬと言う言葉もあるのだ。

今の俺に必要なのは圧倒的に後者。一にめし二にめし、三四が飛んで五までめし。
だが悲しいかな、いつもめしをくれる兄ちゃんがいる商店街まで行くには俺の体力が持たないし、雀か何かを狩ろうにもこの体たらくでは失敗するのが関の山か。
志半ばで、俺は…俺はこの、冷たい石畳の上で死んでしまうというのか。嗚呼…


「…何だこの猫。罰当たりだな」


ふと、沈みかけた意識の中でそんな声が聞こえてきた。
ゆっくりと瞼を上げて見えたのは、雑巾の掛かったバケツ。顔を上げると、バケツの取っ手を握った気だるい雰囲気の小娘がいた。


「ほら、そこ退いて」

「ふ、ぎにぃ…(な、何しやがる…)」


小娘は俺の首根っこをひょいと持ち上げると、そのまま脇の方に下ろした。
そして徐に、俺がついさっきまで座り込んでいた平らな石をぞうきんで磨き始める。


「…よし」


やがてやることを終えた小娘は、雑巾を絞って石に手を合わせた。
瞼を上げた小娘と目が合う。


「…何、お前。腹減ってんの?」

「…ぐるる(…うるせーよ)」


つんと目をそらした俺に、小娘は訝しげに眉根を寄せながら鞄に手を突っ込んだ。
ふわ、と途端に食い物の匂いが鼻腔をくすぐる。


「昼のあまり。食う?」

「…!」


差し出されたのはただの菓子パンだった。
しかし、今の俺にはどんな高級猫缶よりも立派な御馳走に見える。
俺は今だけ、恥も外聞もかなぐり捨てることにした。


「にゃー!(すまねぇ、恩に着る!)」

「ずいぶん腹減ってたんだな」


パンにがっつく俺に、小娘は少々驚いたようである。
きょとんと目を丸くしながらも、小娘はキョロキョロと周りを窺った。


「なるべく早く、残さず食えよ?こんなとこで猫の餌付けしてるとこ見つかったら、私が怒られるんだから」

「ふなーご(言われなくても)」

「ならいいんだよ」


…今、意思の疎通が出来た気がする。
俺はペロリと口元を舌で拭った。食べ残しはゼロである。


「よし、元気になったな」

「にゃーお(ある程度な)」


腹五分目ってところだが、商店街に戻るには十分だ。
俺は尻尾をゆっくりと振って、踵を返す。


「にゃああああ(あばよ小娘、助かったぜ)」

「じゃーな。猫」


やっぱり意思の疎通ができた気がする。
ちらりと頭越しに振り返った小娘は、雷門中の制服を着ていた。






「ふぐるる(やっと一息吐けたか)」


無事に商店街にたどり着き、ラーメン屋の兄ちゃんから猫まんまをもらった俺は、看板の影に丸まってぼんやりと道行く人間を眺めていた。
日はすっかり落ちて、辺りはオレンジと紫と黒を混ぜ食ったような色になっている。


「唐辛子と、豆腐と…あと小豆な?ああ分かった。…な、なぁ夏未。今日の晩飯って……え、カルボナーラ?へ、へぇ…そっかぁ…た、楽しみダナー」


スーパーの袋をぶら下げた男が、急ぎ足で目の前を通りすぎて行く。
…はて、今の顔はどこかで見たことがあるような気がするんだが。やけに顔色が悪かったが、大丈夫なんだろうか?

何となくそいつを目で追っていくと、山の方でパッと明かりが灯った。
鉄塔の天辺にある、稲妻マークの電灯だ。


「…にゃーご(…ふん)」


頭にぽんと浮かんだ光景に、俺はついつい鼻を鳴らす。
ああ、結局俺が行き着くのはあそこしかないのだな。


「みい、おあー(帰るか、雷門中へ)」


看板の下から這い出て、俺は歩きなれた道を行く。
そうだな。十年もあそこにいたんだ。校舎がぶっこわれたりしても、今までずっとあの場所で生きていた。
きっと、辛気くさいのもいつかは消えてなくなるだろう。それまでもうしばらく、待ってやろうじゃねーか。


「ねえ信助、ラーメン食べてこうよ!」

「うん!あ、待ってよ天馬ー!」


アーケードの出口で、雷門の制服を着たガキとすれ違う。
それが何だか、早く帰ってこいとでも急かされているような気がして、少しだけ笑いがこみあげた。


「にゃあーん(今日も平和だな)」


俺はニヒルな猫。
いつもと変わらぬ道を行く、一匹の猫である。