奇跡とよびたい
「何ですか? これ」
それは日差しの穏やかな日のことであった。
庭で洗濯物を干していた名前が食堂へ戻ると、テーブルの上にちょんと不思議な物体が置いてある。
ああそれは、と返したのは丁度買い出しから帰ったらしい冬花だった。
「食材の買い足しに行ったら、露天の人に声を掛けられて……お試しでどうぞ、っていただいたの。多分ジョークグッズみたいなものだと思うんだけど」
「『世にも不思議なことが起こるスイッチ。効果は約3時間』……?」
掌に収まるそれは、確かに書いてある名前の通り何かのスイッチのようだった。裏面に記された簡潔な説明文に名前は首を捻る。
「押してみる?」
「いやぁ、ちょっと……」
「あれっ、何ですかそれ?」
苦笑いして名前がそのスイッチをテーブルに戻したその時だ。食堂にやって来た春奈が目ざとくそれを見つけ、ひょいと手に持つ。
「世にも不思議なことが起こる……? ふぅん、おもちゃか何かですか?」
「うーん、多分そうだと思うけど……」
「えいっ」
「あっ」
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「そんな経緯がありまして、名前さんが男の子になりました」
「は????」
選手一同は揃って訳の分からない、といった様子で大量の疑問符を飛ばす。
いつもの練習中に春奈がどこか見覚えのあるようでないような少年の手を引きながら合宿所から走ってきたと思ったらこれである。
「え……じょ、冗談だよな?」
「……」
困惑した表情の円堂が春奈と一緒にやって来た冬花に尋ねると、冬花は沈痛な面持ちで首を振った。
「私があんな変なものを貰ってこなければ……」
「ふ、冬花さんは悪くないですよ! スイッチ押したの私ですし……!」
「で? 当人的にはどうなんだよ、この状況」
わあわあと言い合うマネージャー2人から視線を外し、一人ベンチに静かに座っていた少年──曰く名前──に一瞥をくれて不動が言う。まだこれを冗談だと思っている顔だ。
「……ふふ。冗談だったら良かったんですけどね」
ぽつり、口を開いたのは聞き覚えのある口調。しかしいつもと比べると幾分か低い声。例えるならCV小野賢章といった具合。
彼、もとい彼女は溜息を吐きながら言った。
「信じられないんでしたら、先日不動さんとした戦術の話をしましょうか。不動さんが最後に腹が減ったって言うから私がホットサンド作ったときのことなんですけど」
「いやいい、分かった信じる」
左右の鬼道と佐久間がジト目でこちらを見たのが分かって不動は即答する。とにもかくにも、不動と名前しか知り得ないことを知っている辺り本人で間違いはないらしい。
「体に異常はないのか? 見た目がどうこうではなく、体調方面で」
そう声を掛けるのは鬼道だ。恋人である名前が男になったとあって内心気が気でないが、そんなことはおくびにも出さない。
名前(CV小野賢章)はそうですね、と頷いてジャージの裾を摘まむ。
「服の肩の部分なんかが多少窮屈になったくらいで、今のところ特に何も……」
「ええっと、じゃあ見た目以外は何ともないんだな?」
それではしばらく、このまま放っておけば良いのだろうか。本当に?
何せこんな前代未聞な事は初めてなので、一同はいまいちハッキリしたことも言えずに顔を見合わせる。
そこで、それまでしょんぼりと俯いていた冬花がパッと顔を上げて唐突に踵を返した。
「わ、私さっきの露天の人にあのスイッチ返してきます! あんなものを渡すなんて、苦情を言っておかないと……!」
「あっ、冬ッペ──」
走り出した冬花に円堂が目をやった次の瞬間だ。
「きゃっ……」
慌てて駆け出したせいだろう、冬花の足がもつれ、体が大きく傾く。
あっ、と誰かが声を上げるが早く、動いたのは名前だった。
「──だ……大丈夫ですか? 冬花さん」
「あ……は、はい……」
ひらりとベンチから飛び降り、一足飛びで倒れそうになった冬花の体を支えた名前は腕の中で固まった冬花に怪我がないことを確認すると、眉尻を下げて微笑んだ。
「慌てないで、冬花さん。こうなったのは冬花さんのせいじゃないし……説明にあったことを信じるなら、3時間で元通りになるはずですし、きっと大丈夫ですよ。ね?」
「……う、うん……ありがとう、名前ちゃん……」
ぽっとピンク色に染まる冬花の頬。中身は名前だと分かっているのだが、見た目は完全に物腰柔らかな少年なのだ。その光景はさながらロマンス映画に出てくる王子と姫である。一連の流れを見守っていた春奈が、興奮に赤らんだ顔で「はわわ」と呟いた。
「それにお礼参りは自分で行きたいので」
「あっ、待って待って名前さんそれは惨劇の予感」
ゴキゴキィ、と名前の手からとんでもない音がする。この王子、物腰は柔らかだが中身は過激派である。冬花はまだぽややんとしていた。
「と、とにかく、私の心配はご無用ですので。皆さん、通常通り練習に戻っていただいて大丈夫です」
「そ、そっか……」
本人がそう言うのであれば。そんな空気になったこともあり、選手たちは困惑が収まらないまま仕方なく練習を再開する。
その間にも、名前は至って普通にいつもの仕事を熟していた。
喉から出る声が違うことには違和感があるが、男性の体格になったのに合わせ背丈と手足が若干伸びたので力仕事がいつもより少し捗るまである。
そして定期的に王子ムーブをかますので春奈や冬花、別所での作業から戻ってきた秋がその都度「はわわ」となっていた。
それに対し、一番複雑なのはやはり鬼道である。
紆余曲折あってやっと思いの通じ合った彼女≠ェほんの数ヶ月の内に性転換するなんて、付き合った当初は考えもしなかった。否、普通ならばそんなことに考えが及ぶことなど到底ないのだろうが。
おまけにこの*シ前、自分よりも3センチほど背が高いと来た。
「(何故だ……普段他のところについている脂肪や筋肉が変換されたのか? 一体どういう仕組みなんだ)」
「……あ、あのぅ、鬼道さん?」
辛抱溜まらずといった様子で名前がこちらに視線を向けたことで、鬼道はそこでようやくかれこれ丸1分程名前の横顔を無言で見つめていたことに気が付いた。目つきで言うと睨むと言った方が正しいのかもしれない。
「そんなに見なくても、もうすぐ戻りますよ……多分」
「だと良いんだが……」
溜息交じりに答えた鬼道を一瞥し、名前はふと辺りを見回す。
丁度周囲には誰もいない。ややあって、名前はそっと口を開いた。
「へ、変なこと、聞いていいですか」
「? ああ」
「鬼道さんは、もしも私が女の子じゃなく男の子だったら、私のこと……」
──こんな風に好きにはなりませんでしたか。
そう尋ねようとして、口を噤む。
「……いえ、やっぱり何でもありませ──」
「──どうなんだろうな」
しかしそれでも、名前の聞きたいことは伝わったのだろう。鬼道は名前が言い終えるより先に、顎を摘まみ考え込んだ後に言った。
「……やっぱり、お前が女子ではなかったらこんな関係にはならなかったとは思う」
「まぁ、そうですよね……」
「ただ、信頼の置けるマネージャーとして良い友人になっていたことは確かだな」
名前はぱちくりと瞬きを繰り返す。鬼道のこの返しは、前半はともかく後半が予想外だったのだ。
「鬼道さん、男の子の私でも友達になってくれたんですね」
「何だ、その意外そうな顔は」
「いやぁ……」
最初に出会った頃の今よりももっと厳しくて実力主義だった鬼道が、今よりももっと優柔不断でなよなよしていた名前を最後まで見限らず傍に置いていたのは、影山の意向があったことは勿論だが、ひとえに名前が鬼道と同じ男子≠ナはなかったからではないかと名前は思っている。
『女子だから』と言う理由である程度のことを見逃されている──鬼道に自覚があったかどうかは分からないが、それは当時から何となく感じていたことだった。
「(だからこそ、それが少し申し訳なくて早く役に立てるように頑張ってたわけだけど……)」
「名字?」
「……いえ。私、女の子で良かったなぁって」
今は男だけどな、と鬼道が冗談交じりに言って、苦笑を返した次の瞬間だ。
ぽんっと軽い音と共に、どこからともなく湧き出た大量の煙が2人の視界を覆い尽くす。
「うわっ!」
「な、何だ!?」
その音を聞きつけた仲間たちが何事かと振り向いた頃には、煙は全て風に舞い上がっていた。
そこには驚いた顔の鬼道と、元通りの姿になった名前が立ち尽くしている。
「あっ、名字さん元に戻ってる!」
「良かった〜、あのままだったらどうしようかと思ったッス」
仲間たちは元の女の子に戻った名前を見てホッと安堵の溜息を吐いた。心配はいらないとの本人の言葉を信じていても、やはり気にならないわけがなかったのだ。
「……鬼道さん」
「ん?」
「私、やっぱり女の子に生まれて良かったです」
性別が変わっても関係性は変わらない、そんな展開も信頼と友情が見て取れてまた良いものであるだろう。
けれど、今この時間はきっと、自分が『女子マネージャー』であったから存在している。名字名前が、少女だったからこそ成立している。
「ああ、俺もそう思う」
目をしばたいた鬼道は、しみじみと言った名前に少しだけ照れたように笑って頷いた。
余談だが──マネージャー3人はもうあの王子様の名前に会えないと分かって、ほんの少しだけ残念な気持ちになったとか、ならなかったとか。