※旅中に二月を迎えた設定
「…はぁ」
ふと隣から小さく聞こえたアンニュイな溜息に、織乃はそちらを振り返った。
窓の外を眺めている秋が、ぼんやりと頬杖を突いている。
「どうしたんですか?秋ちゃん」
「えっ?あ…」
秋は慌てたように視線を織乃へ向けた。
道中にあったコンビニに停車したキャラバンの中には、選手のデータ整理をしていた秋と織乃しか残っていない。
秋が何に目を奪われていたのか分かった織乃は、眉尻を下げて少し困ったような顔で笑った。
「…来年に持ち越しですね」
「う、……うん」
ほんのりと頬を赤く染めて、秋は小さく俯く。
彼女が見ていたのは、コンビニの壁に貼られたポスター─バレンタインデーフェアの広告だった。
打倒エイリア学園を掲げて早一ヶ月と少し。
バレンタインを気にする余裕があるわけがなかった。
「…あの…織乃、ちゃん?」
「はい?」
ぱちぱちとモバイルのキーをタッチする手を止め、織乃は秋へ視線を戻す。
秋はもじもじしながら自分の爪先を一心に見つめていた。
「その…ひょっとして織乃ちゃん、わ、私の…す、す、す」
顔を真っ赤にしてどもる秋に、織乃は一瞬昔の自分を見ているような気分になる。
しかし秋の言わんとすることを察すると、その熱は伝染して、彼女も少し顔を赤くして頷いた。
「円堂さん、ですよね」
「う…」
秋の顔は既に蒸気が出そうなほど茹で上がっている。
織乃は少し申し訳なさを覚えながら、苦笑した。
「私、分かりやすいのかな…」
「う、うーん…」
それを言われると、「微妙」としか答えようがない。
今まで仲間と交わした会話の端々を思い出すに、染岡が確かそれらしいことを言っていたはずだ。
なら、他にも何人か気付いている人間がいてもおかしくはない。
例えば、夏未や春奈。それに、勘の良さそうな豪炎寺や鬼道。
逆に気付いていないと言い切れるのは、肝心の円堂くらいではないだろうか。
「…恋愛って難しいですね」
「うん…」
小さく頷き、秋は再びポスターへ目をやる。
そしてそのまま、ふと思いついたように口を開いた。
「そう言えば、織乃ちゃんはそういう人っていないの?」
「……へ?」
一拍空け、織乃はポカンと呆けた声を返す。
少々間の抜けた空気が漂う中、キャラバンの扉が少しだけ揺れたことには、二人は気付かなかった。
「……どうなんだろな」
─キャラバンの外。
僅かに開いた扉の隙間から中の様子を伺うのは、乗車するタイミングを失ってしまった男子たちだった。
中の二人は女子特有の柔らかい雰囲気の話をしている。
せめてそれが途切れるまでと思っていたら、秋の予想外の質問にその場の空気が(一部だけ)一瞬にして変わった。
「バレンタイン、か…」
秋と同じようにアンニュイな声音で呟いた一之瀬が、ポスターを見上げる。
それを見ないようにしつつ、土門が鬼道をちらりと見た。
「な、鬼道はどう「知らん」
怖い。すごく、怖い。
眉間に深い皺を刻んだ鬼道に、土門は戦慄を覚える。
盗み聞きをしている罪悪感からか、風丸がそわそわとしながら周りを伺った。
「なぁ、もうタイミングは良いから早く中に入らないか」
「まぁ待てって。どうせならもうちょっと先を聞こうよ」
そう言って彼を制すのは、復活した一之瀬である。
「いるのかな、織乃ちゃん」駐車場の車止めに腰掛けて、吹雪が小首を傾げた。
「好きな人」
「いたとしても、なぁ」
土門は言葉尻を濁したが、鬼道はその先が容易に想像する出来た。
─いたとしても、あの兄弟たちが黙っているはずがない。
やがて、しばらく間を空けた織乃が答えるのが聞こえた。
「今は、いませんよ」
「今は?」
秋の問いと全く同じことを彼らは心の中で考える。
今は≠ニいうことは、昔は少なからずいたということだろう。織乃が少し気恥ずかしそうに笑う気配がした。
「小学校低学年の時に、…少しだけ。それ以来、全然」
鬼道は、自分の少しだけ張りつめていた緊張の糸が弛んだのを感じる。
そんな彼の肩を、吹雪がちょんとつついて小声で囁いた。
「良かったね、鬼道くん」
「な」
何を、と思わず出そうになった大声を、すんでのところで鬼道は喉の奥に押し込む。
吹雪が素知らぬ顔で笑っているのが、妙に腹が立った。
「─あれっ、何やってんだみんな。中に入んないのか?」
ふと後ろから聞こえてきた元気のいい声に、一行は竦み上がる。
振り返ると、コンビニから出てきた円堂がキョトンとした顔でこちらを見ていた。
やばい、と一之瀬と土門が呟く。
ぎぎぎ、と軋んだ音を立てて、キャラバンの扉が開いた。
「─本当、何してるんですか?」
─後ろが、振り向けない。
絶対零度の怒気が首筋に纏わりつき、頬に冷や汗が伝う。
「おっ、御鏡、秋!二人とも中にいたのか?」
「はい、少し話し込んでて」
ね、秋ちゃん─それに答える秋の声も、僅かに─しかし確かに怒りを孕んでいる。
女子の会話を、しかも恋愛の話を盗み聞きされたのだ。
怒るのも当然である。
「それなりの罰は、きっちり受けてもらいますからね」
ナイフを突きつけるような声で、織乃は円堂に聞こえないように、言う。
その日の練習後、彼らに手渡されたジャグの中身は─とてつもなく苦い、青汁だった。