「うーん」


部活動の休憩時間中のことである。
一之瀬が擦りむいた足の治療を受けながら、首を捻った。


「どうしたの?カズくん」


脱脂綿に消毒液を滲ませながら、織乃が問う。
いや、と一之瀬は言いよどんで辺りを見回した。


「何か、視線を感じるような気がするんだけど…」

「視線?」


聞き返し、織乃も目をあちこちに向けてみたが、特に何も見あたる物はない。
「気のせいじゃないかな?」言いながら脱脂綿を傷口に押しつけると、一之瀬は悲鳴をかみ殺しながら、納得行かないような顔で更に首を捻る。


「ぜ、ったい誰かに見られてるような、いてッ、気がするんだけどなぁ…いたた!」

「…はい、おしまい。まぁ、何か身に覚えがあるなら話は別だけどね?」


「そんなこと、…ないよ!」一瞬考えて言った一之瀬をハイハイとあしらい、織乃は道具を救急箱にしまった。

すると、治療が終わるのを待っていたらしい鬼道が、数枚の書類を持ってやってくる。


「御鏡、今日の朝練のデータが欲しいんだが…」

「はい、…あ、待って下さい。まだまとめ終わってなくて…」


バインダーをめくった織乃が少し顔をしかめる。
「後どのくらいだ?」と尋ねた鬼道に、30分もあれば、と答えると、彼は頷いた。


「なら、俺もその間にフォーメーションの、……」

「鬼道さん?」


突然押し黙った鬼道に、織乃は訝しげに眉根を寄せた。
鬼道は呼びかけには答えずに、眉間に少し皺を寄せて辺りに視線を飛ばしている。


「どうかしました?」

「いや…何か、嫌な視線を感じるような気がして」


「鬼道さんも?」目をパチクリとさせた織乃に、鬼道は顔を彼女の方へ戻した。


「も=H」

「さっきから、カズくんも視線を感じるって…。ね?」


振り返ると、少し驚いたらしい一之瀬は肩を揺らす。
そして、あー、と頬を指で掻いた後、苦笑した。


「うん、さっきまでね。でも今は何でかなんともなくて」

「ええ?」


織乃は、何だそれ、とでも言いたげな怪訝な顔をする。
一之瀬は何でだろうな、と首を傾げた後、鬼道を見た。


「鬼道は、何か身に覚えがあるとかないの?」

「特にないな」

「ホントに?」


嘘を吐いてどうする、と肩を竦めた鬼道に「それもそうか」と辺りを見回しながら納得する。
うーん、と唸った織乃は首を傾げた。


「じゃあ、やっぱり気のせいなんじゃ…」

「あ」


言いかけた言葉を、一之瀬の声が遮る。
何?と振り返った織乃に、一之瀬は立ち上がって彼女の肩に手をかけた。


「鬼道、ちょっとじっとしててくれよ」

「は?」


疑問符を頭上に浮かべた鬼道に構わず、一之瀬は織乃の体をゆっくりと前に押す。
「えっ、何?」ず、ず、ず、と否応無しに織乃は少しずつ前へ進んだ。

ず、ず、ず、と鬼道との距離が縮まっていく。
そして後少しで体がぶつかるという寸前、鬼道が思わず後退りしようとした次の瞬間だった。


「だ―――――ッ!!」


謎の奇声と共に、オレンジ色の影が二人の間をすり抜けていく。
その影に腕を捕まれ、鬼道と一之瀬から一歩離れた場所まで引っ張られた織乃は、目を丸くした。


「だ、大樹?」

「人の姉にナニしようとしてんですかッ」


歯をむき出して一之瀬に威嚇するのは、陸上部のユニフォーム姿になった大樹である。
やっぱりね、と肩を竦めた一之瀬に、織乃はハッとした。


「…視線って、大樹?」

「これでも我慢した方なんだよ姉ちゃん!」


呆れた顔になった姉に、大樹は必死の形相で言った。
しかしその我慢も、一之瀬の謀りにより限界がきてしまったらしく、とうとう飛び出してしまったようである。


「一之瀬…お前、俺をおとりに使ったな」

「まぁまぁ、良いじゃない。視線の正体もわかったんだし」


ジト目になった鬼道に、一之瀬は悪びれもなく笑った。
当の大樹は、まだ警戒を解いていないようである。


「とにかく、俺の目の黒い内は、姉ちゃんにヤらしいことはさせませ…」

「だ・い・き」


ゆっくりと囁いた織乃が、大樹の首に腕を回した。
端から見ると仲むつまじい姉弟の図だが、大樹の顔がどんどん真っ青になっていく。


「言ったよねぇ?お姉ちゃんの友達に変な疑い持つなって…忘れちゃったのかなぁ?」

「わ、忘れてません…!」


ぎりぎりぎり、と聞こえる不穏な音に、鬼道と一之瀬の顔も少し青くなった。
織乃はするりと腕を離し、グラウンドの外を指さす。


「だったら早く、自分の部活に戻りなさいッ!!」

「ハイッ!!」


冷や汗を掻いた大樹は、脱兎のごとく逃げ出した。
全く、と嘆息する織乃に、二人は改めて再確認する。

彼女の逆鱗には、決して触れてはならない─と。