「おーい、ヒヨコ」
ある日の放課後のことだ。
商店街の本屋で雑誌を立ち読みしていた織乃は、少しだけ懐かしい自分のあだ名に肩を揺らして振り返った。
「あ…辺見さん」
「よぉ、奇遇だな」
右手はポケットに突っ込み、左手にはビニール袋をぶら下げて近付いてきた辺見は、織乃の手元をのぞき込む。
「…お前なんで主婦向けの雑誌なんか読んでるんだよ」
「や、役に立つんですよ。色々諸々…」
「ホント、主婦だな」呆れたような辺見のこのツッコミも久しぶりだと、若干的の外れた懐かしさを感じていた織乃は、そう言えばと話を変える。
「辺見さんも、本買いに来たんですか?」
「いや、買いに来たっちゃー買いに来たんだが…」
中途半端に言葉を切って、辺見はふと考え込むような顔になった。
彼は、左手のビニール袋と織乃の顔を見合わせて。
「ヒヨコ。お前、今ヒマ?」
「はい?」
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「咲山さんが風邪、ですか」
「そーそー。熱は大したことないらしいけど、大事を取ってとかなんとか…」
もう帝国の生徒でない自分が見舞いに行っても良いのかと尋ねれば、辺見はわざとらしく溜息を吐く。
「バッカお前、男子ばっかの見舞いじゃ、むさ苦しいだけだろ」
「はぁ。…あれ?そういえば、他の人たちは誘わなかったんですか?」
私が風邪を引いたときは四人もお見舞いに来てくれたのに─疑問を投げかけると、辺見の顔がぐっと歪んだのがわかった。
あー、と言い渋った辺見は、明後日の方向を見ながら言葉を続ける。
「誘ったには誘ったんだが、源田は今日他に用事があるとかで、他の奴らは…うん」
「? 何ですか?」
言いにくそうに口をムズムズと動かしていた辺見が、ふと「あ」と声を上げて前方を指さした。
「あれだよ、咲山んち」
「え、……え?」
顔を上げた織乃は、目の前に佇む建物を思わず二度見した。
由緒正しき日本屋敷─とでも紹介されそうな、立派な瓦屋根と重厚な色をした木製の門。
予想外の展開に、つい織乃はたたらを踏む。
「言っとくけど、こんくらいでビビってたら、お前もたねーぞ」
「は、はい?」
ぎょっとこちらを見上げた織乃を後目に、辺見は慣れた様子で木製の門に似合わないインターホンを押した。
スピーカーから聞こえてきたやけに野太い声に、織乃は余計後込みする。
「辺見ッス。咲山くんの見舞いに来ましたァ」
間延びした声で答えると、門が左右にゆっくりと開き始めた。
「─おっ、辺見の坊ちゃん!いらっしゃい!」
にゅっと中から出てきたのは、スキンヘッドが眩しい─額に傷の入った中年の男。
うっす、と軽く会釈した辺見の陰に隠れた織乃に気付いた男が、むっと声を上げた。
「坊ちゃん、そこのお嬢ちゃんは…」
「ああ、俺らのダチです」
肩を小突かれ、完全に萎縮しきっていた織乃はハッとして辺見の背中から顔を出す。
「こ、こんにちわ…」小さく言うと、男は歯を見せてニカッと笑った。
「やぁやぁ、若や坊ちゃんに女の子の友達がいたとは!」
「それ、ちょっと失礼っすよ。で、あいつの様子は?」
「ああ、結構元気なもんでね。一応部屋で寝てはいますけど」
男に礼を一つ、辺見は織乃を連れ立って咲山邸を闊歩する。
靴を脱ぎ、堂々と廊下を歩く辺見に、織乃は昔に戻ったようにおどおどと話しかけた。
「ああああの辺見さん、あの、咲山さんちって、もしかして、所謂、や…」
「あー、いや。一応そういうんじゃねーよ。ただ、家の手伝いに、何人かそういうのを抜けてきた人がいるだけっつーか…まぁ俺も詳しくは知らねえんだけど」
余計に謎が深まってしまった気がする。
織乃は彼の後ろを歩きながら、一人頭を抱えた。
「…っと、ここだ。おぉい咲山、入るぞ」
挨拶もそこそこに、辺見は一つの障子をスターン!と開く。
畳張りの部屋に似合わない、カーペットには机とベッド。
部屋の隅には雑多に置かれたサッカー用品。そのスペースに、咲山はあぐらを掻いて座っていた。
「…ん。マネージャーじゃん」
「ど、どうも…」
「途中で偶然会ったから、引っ張ってきた」
ほらよ、と辺見が投げてよこしたのは本屋で購入したサッカー雑誌である。
「さんきゅ」小さく礼を言いながら雑誌を捲る咲山に、織乃は控えめに声を掛けた。
「あの…咲山さん、風邪引いたって」
「あァ。引いてたけど、薬飲んだら大体治った」
あっけらかんと言った彼に、「そんなバカな」と半ば呆然しているところに、辺見がケタケタと笑って入る。
「こいつ、薬とか効くの早えーんだよ。ほら、チビだか「だーまーれ、このハゲ野郎」
ばしん、と辺見の額に叩きつけられたのは、そこら辺に散らばっていたタオルだった。
思ったより、元気そうで良かった。
織乃はほっと肩の力を抜く。
「つーかマネージャー、ビビったろ」
「ああ、めっちゃ」
マスクの下で咲山が笑う気配がした。
仕方ないじゃないですか、と思わず反論すると、「まぁ、そりゃな」と咲山は気怠げに手を振る。
「あいつら昔の癖が抜けねぇってんでずっとあんな感じだけど、別に悪い奴らじゃねぇから。…まぁ、佐久間たちは怖がって家に来たがらないが」
「それは…はぁ」
その気持ちはよくわかった。あんな、数々の修羅場をくぐり抜けてきたような目で見られれば、大概の子供は怯えるだろう。
曰く、辺見はすでに慣れてしまったのだとか。
そして会話もそこそこに、咲山邸を後にして辺見と別れた織乃は、夕暮れの日差しを浴びながら、はたと思う。
「…そういえば咲山さんちって、結局どういう家庭だったんだろう…」
その事実を確かめるほどの気力は、今の彼女にはなかった。