オデュッセイア
※ご都合魔法薬
「驚かせてしまったな、ミス。先程の講義でバイパーは魔法薬を被ってしまったんだ」
ツートンカラーの髪を撫でつけながら、錬金術の教師が簡潔に告げた。淡々としてサディスティックな声である。ペアを組んだ生徒のミスで実験中に事故が起きたこと、被った魔法薬は生命や健康に支障をきたすものではないこと、効果が解けるまでに半日ほど時間がかかること、とにかくそういった話を要領よくスラスラ話す。これを聞いたクロエは当然困惑した。軽い事故はよくあることで、かくいう自分も同じ目に遭ったことがあるけれど。年齢と精神が幼くなる薬を実際に見るのは初めてだ。幼いジャミルは警戒しているのか、クルーウェルのほうをあからさまに睨んでいた。
「あの。それはもしやロートスの霊薬ですか? NRCの講義ではとても先進的な薬を扱うのですね……」
「グッド、よく勉強している。ロートスは生成が難しく材料も用意し難いから多くの学校で履修範囲外だが、今後魔法医療分野で研究が進められていくであろう代物だ。覚えておくといい。材料は黄金の枝、セイレーンの鱗、それから──」
クルーウェルは機嫌よく赤い革手袋をはめ直した。悪ガキの相手が仕事なので、こうして勉強熱心な生徒に出会うことが珍しいのだ。このまま講義が始まってしまいそうな勢いだったので、クロエは「帰宅後に勉強します」と言った。
「ム、俺としたことが。時間を忘れるところだった」
「いいえ、いいのです。それで先生、ジャミルくんの処遇はこれからどうなさるんですか?」
「そうだなア。面倒見てる暇はないんだが、ホリデーの件もあってこの状態でスカラビアに返すのもはばかられるし。ン、監督生に預けるのもひとつの手か。いやしかし、アイツもグリムの世話で手一杯かな……この通り警戒心が強いもので、俺も考えあぐねている」
ジャミルは一見すると六、七歳くらいに見える。となれば、クロエのことも知らない頃だ。クルーウェルが明らかに怖そうな大人であることも一因とは思うが、何にせよ全ての人間を警戒しているように見えた。
「経緯は説明したんですか?」
「したとも。バイパーも賢い仔犬だから理解はしてくれたが、中々心を開いてくれなくてな。アジームにも会わせたんだが。ヤレヤレ。今日は会議があるってのに忙しくて参る」
「先生、よければ私が預かります。かれ……友達なので。カリムくんのところにも連れていきますから」
他校の教師に惚れた腫れたを打ち明けるのも気恥ずかしくて、やんわり濁した。クルーウェルは願ってもない申し出にパッと目を開いた。そうすると、ただでさえ強い目力が増すようだった。黒のアイシャドウがキラキラ瞬いた。
「それはこちらとしても好都合だが。にしても人が好いな、感心するよ。ウチにはまずいない人材だ。爪の垢を煎じて飲ませやりたい。──待て、こういう発言はもしやセクハラになるのか?」
「大丈夫ですよ先生。私は何も気になりませんから」
「ああ安心した。最近は何かとハラスメントに敏感な世相だから……とにかくそれであれば俺からも頼む。あと数時間で戻るだろうから俺の準備室を使っても構わない。ミス、名前と学生証を確認しても?」
「あ、はい。もちろんです」
「ふむ。ミス・ハーツイーズ……ヨシわかった。このことは学園長にも伝えておこう。バイパー、聞いていただろうな。そういうことだからしばらくこの女性の傍にいるように。では俺はこれで」
クルーウェルは言い終わるや足早に去った。よほど忙しいのだろう。踵を返したときにウッディな香りがして、クロエは「すごくオシャレな人だ」と感心した。女学院にもファッションに気を遣う教師は多いけれど、男性が少ないため新鮮だったのだ。
さてクロエ、気を取り直し目の前の小さな恋人を見る。外見は初めて会ったときとあまり変わらない。顎くらいまで髪が伸びていて、片側を編み込んでいる。怪訝に周りを見渡して、年齢の割に天真爛漫そうな顔ではない。もうスレているんだろうかな。クロエはしゃがんで目線を合わせた。
「ごきげんよう。私はクロエです。あなたの名前は知ってるよ。今はいくつなの?」
「すみませんが、教える意味を感じません」
「まあ」
ジャミルは無表情で言いのけた。普段は素っ気なくとも冷たくはないので、懐かしい感覚にクロエはいっそ感動していた。初めはこうだった。だけど、あのときはお互い子供だったからそこまで警戒もされなかった。
「ごめんなさい。それじゃあとにかくどこか休めるところに行きましょうか。薬学準備室を使っていいみたいだから、そこがいいかな。離れないでね」
「手は繋がなくて結構です」
「あら、大人びてること」
仕方ないのでクロエはそのまま歩き出した。準備室に着くまで会話はなかった。時折何か話そうかと思うが、あんまり未来を教えるのも躊躇われて、必要以上には話さないことにしたのである。
薬学準備室はクルーウェルの香水と同じ香りがほのかに漂う。男の人がこういう香りを纏うのは知的で洒落ている。NRCが共学だったら今頃人気だっただろなと思った。
「クロエさん」
「はい、ジャミルくん。どうしたの」
「さっきプールで泳いでいる生徒が見えました。夏じゃないのに泳ぐものなんですか?」
「きっと人魚ですよ。ここには世界中から魔法士の卵が集まってて、その人たちは珊瑚の海から呼ばれたんだろうね。彼らは季節に関係なく泳ぐから」
「人魚。初めて見た……」
ここまで無言だったジャミルが口を開いた。魔法学校の光景があんまり見慣れないので、あたりと光景にあれやこれやと内心驚いていたのだ。好奇心が次から次へと湧いてきたみたいだった。
「あなたは俺の友達なんですか?」
「あ、そ、そうだね。私の一番です」
「女性の親友ができるのか……」
結局話してしまったと思ったが、ちょうど霊薬の副作用を思い出す。変身中の記憶は引き継がれるが、時間を逆行することはないのだっけ。つまり戻ったその人に子どもになっていた記憶は残るが、過去の自分が覚えているわけではない。クロエは安堵した。
「十七歳のカリムくんはどうだった?」
「ご立派に成長されたんだなと思います。こんな名門校に選ばれるなんて、カリム様は魔法の才能にも素晴らしく恵まれていたようで。俺も鼻が高いです」
ジャミルはここで初めてニッコリと笑った。ものすごく完成された笑顔で、左右対称の能面みたいな表情だった。これを見て、クロエはなんだか感慨深くなった。彼は嘘をつくときに誰かを褒めて気を逸らすことが多い。それはカリムとの主従で培われた振る舞いの名残かもしれないと思った。
「ジャミルくんもNRC生ですよ」
「いいえ。俺はきっと主の付き添いで入学したんでしょう。才能溢れる方ですから、護衛が必要なんです。勝負だっていつも俺の負け越しで」
「実力です」
「えっ?」
「みんながあなたの才能を認めます」
さすがに面食らって、ジャミルは口を閉じた。クロエはよく見ると不思議な虹彩を持っていて、透き通っている。今まで一度も見たことがない色なので、なんという名前なのかは分からなかった。しかしなにか曲者の魔力めいたものを感じ、思わず目を奪われた。こんな女性に会ったのは初めてだった。
「──?」
「あら。どうしたんですか?」
足元が焼けるような気分になった。ジャミルは矢も盾もたまらず顔を逸らしたが、なぜそうしたのかは分からなかった。とにかくこれ以上は目を合わせていられないと思ったのだ。
「気になる本があったの?」
「あ、あれ。あの本が……」
濾過されたような清かな声が近づいて、とうとう顔を覆いたいとすら思った。何かの魔法か、体の不調なのか、部屋の空調が効きすぎなのか。頭のなかは意味のない堂々巡りだった。ジャミルはなんとか適当に見えた本を指さした。
「生物錬金と禁忌について──難しそうな内容ですね。なんだかジャミルくんらしいかも。読む?」
「お、俺の」
「はい」
「俺のなんなんですか。あなたは」
本当に親友なのか? と思った。いっそ危機感に近い気分を味わっている。顔も見られないような相手とどうして友好関係を築けるというんだ。ジャミルの心は疑念と焦燥に支配されていた。
しかしそんなジャミルの心はつゆ知らず。クロエはこれを子ども特有の気恥しさがあって、照れ隠ししているのだろうとばかり思った。遠からずとも当たらず。それであまり考えることなく、いつもジャミルに答えるように言った。
「言わせないでよ」
なんだか自分で言って恥ずかしくなってしまった。クロエはジャミルに本を渡して、なんとなく窓の外を見てしばらく恥じ入っていた。ジャミルがこの瞬間恋に落ちてしまったとは知らず。心中どれだけのぼせているかも知らず。