水際⑴
ナイトレイブンカレッジの鐘が鳴る。クロエは思わず感嘆する。それはカラスの重苦しい羽音にも似ていたし、荘厳な音でもあった。
ツイステッド・ワンダーランドには多くの魔法士養成施設があり、当然そこには名門と称される学校もある。例えばクロエの入学した女学院。しかし眼前に控えるのはトップクラスの名をほしいままにする三大名門の一角である。いざ訪れると、なにか圧倒されるものがあった。
グレート・セブンのような魔法士を目指す者ならば誰もが一度は憧れる場所だ。歴史ある学校で、随所に見られる古い煉瓦造りがかえってその貫禄を誇示している。クロエはその図書館に用があった。放課後の訪問とはいえ、メインストリートの人出はそれなりに多く、そんな中を他校の制服を着た女が歩くと少し悪目立ちする。すれ違えば奇異の目を向けられるのも致し方ない仕儀とはいえ、いたたまれなかった。
カレッジの蔵書には興味があったが、もし図書館に入ってもこの調子が続くならば、すぐに用を済ませて帰ってしまおう。そんなふうに考えて、クロエは思いなしか早足で歩いた。
「あっ。すみません」
その足取りが崩れたのは図書館の入口をくぐった矢先である。周囲への注意が疎かになっていたらしく、その場に立つ生徒にぶつかりそうになったので、思わずクロエは立ち止まった。驚いた拍子につま先から視線がのぼって、ちょうど相手をつぶさに見るかたちになる。
「いえ、俺のほうこそ……」
その生徒には見覚えがあった。異国の肌の色、涼しげな面立ち、夜の川みたいな黒髪。赤い羽根と宝石をあしらった髪飾りは、いつか露天商が母に売り込んでいた砂漠の魔術師ゆかりのお守りだ。青色混じりのグラデーションが鮮やかで美しく、ただ赤く着色しただけのレプリカとはひと味もふた味も異なる本物。つまり上等の品である。ひと目で熱砂の良家の出だと想像がつく。
「もしかして、あなたとお会いしたことがありますか」
「悪いが、異国の女性に知り合いは──いや、待て」
案外な言葉を向けられたジャミルは、訝りつつもすぐに記憶を探り始めた。見知らぬ女にかまけている暇はないが、そう言われると無視はできない。何かを思い出さねばならないような気がした。
異国情緒の響きだった。クロエと名を呼ぶ母の声を聞いた。暑い夏の日だ。……
「驚いた。クロエか」
「ご存知だったんですね。ごめんなさい、私もあなたの名前を知っていたらよかったのだけど」
「構わない。ジャミルだ」
「ジャミルくんと仰るの。偶然ってすごいね」
名前を呼ばれる日が来ようとは思っていなかった。たった数日の仲で、遠い国の人間だ。根拠のない縁を信じるような性質でもなし。
たしかに少し不思議な体験だが、美化された映像に過ぎないと思う。しかし、思い出とは強いもので、なにか昔のように落ち着く感じがするのだった。
「ジャミルくんは図書館になにかご用?」
「レポートで使う文献を見繕おうと思ったんだが、恥ずかしながら手間取っている。君は」
「私も少し資料を借りに来たのです。こう広いと何から探すべきか分かりませんよね。一緒に探しましょう」
ナイトレイブンカレッジほどの蔵書数、それも世界中から集まったさまざまな言語の本があるのだから慣れるまでは難儀するのも無理からぬ話である。
あまりに自然な成り行きで気遣われたので、ジャミルは一度断りの文句を考えかけたが、途中でやめた。知らないことはさっさと教わってしまったほうが早いと判断した。
「悪いな、助かるよ」
§
人目を気にする必要もないような、壮大とも言うべき広さだ。天井に届かんばかりの高い本棚と淀んだ紙のにおいが静粛に空間を満たすなかで、わずかな話し声だけが鼓膜を震わせている。
「その服装、近くの女子校のものか。名門だな」
「あら。ナイトレイブンカレッジに選ばれたのに褒めてくれるのですね」
「……。身に余るよ。じきに主が編入してくるんだ。俺はその世話に来たようなもので」
選ばれたのは紛れもない実力だという自負がジャミルにはある。けれどすっかり板についた心にもない謙遜癖が、否定の言葉を選ばせた。それを聞いてクロエは「なあんだ」と軽妙な感じで肩を落とす。
その反応か──見慣れたものだった。不出来を装い相手の心に生まれた侮り。それを見るのはいつだって腹立たしい。幾度こんな真似やめてやろうと思ったか知れない。しかし彼女に落胆されたとは考えたくなくて、ジャミルは無意識に黙る。そのまま返事を待った。
「学校に通っているのにお仕事中なのですね」
「まあ、そういうことになるかな」
「言ってよ、おかげで緊張したでしょ。今日のジャミルくん、妙に愛想がいいんだもの」
クロエは視線を本棚からこちらへ動かした。恥じたような笑いだ。家柄ゆえに叩き込まれ癖になっているのだろう、育ちのよい表情の動きで、それが熱砂で話したころよりずいぶん堂に入っている。
ふと、こんな話が思い出された。数年前、アジームの屋敷に飾ってはどうかと絵を売りに来た行商人がいた。額縁のなかで、花に囲まれた白肌の女性がやさしく微笑んでいる──所謂美人画である。なんでも世界を旅した熱砂の画家が、王国の様式に感銘を受けて描いたもので、伝統的な熱砂の技法と異国風の筆運びがちょうどよい塩梅に組み合わさった唯一無二の逸品なのだという。もっとも交通手段の発達した現代を生きる自分にとっては、その画風にさしたる目新しさは感じられないわけだが。当時は強いセンセーションを巻き起こし、絵画における異文化融合の草分けになったのだという。
なんとしてでも売りつけたかったのか、商人の男はほかにも滔々と絵の価値を説明していた。とはいえ、もとより美術品のたぐいは間に合っていたし、なによりあの絵は贋作だった。
アジーム家当主は「真作は焼失したはずだし、表情がいびつすぎる」と言い切った。すっかり商人としての審美眼の磨き上げられたのである。クロエの頬に浮かぶ微笑を見ていると「あの絵の真作がもし現存していたならばきっとこんな表情だろうか」などと思った。そんな考えが浮かぶほど、作り上げられた乙女らしさがあった。そのなかで瞳だけが、ハッキリとジャミルを映している。淡い輝きである。
「謙遜しないでよ。そのほうがジャミルくんらしいし、私はここに入れなかったんだから」
「女性が入れないのは当然だろう」
「いいえ。きっと私、男の子でも選ばれやしなかった。それに、あなたの主を知らないのに比較するのは失礼に当たります」
考えを見透かされた気がしたが、不快ではなかった。うわべで決めつけられたくないから、自分もうわべで決めつけないようだ。その目には身分も権力も干渉できない。体裁のために善意を切り売りし続けた彼女の、絶対に変わらないところだ。ジャミルは漠然と安堵し、そして今までの振る舞いを馬鹿らしく思った。
「君は、なんというか。変わらないな」
「そうでしょうか。だけど、もう七年ですよ」
「俺の考えだ」
ジャミルが片眉を上げて言えばクロエはちょっとたじろいだように下を向いて、次に顔を上げたときにはもとの表情に戻っていた。
「変わっていないのはジャミルくんじゃないかな」
「そうか?」
「ごめんなさい。これも私の考えなのです。ところで、こういう資料で間違いないかな」
クロエは数メートルばかり向こうの本棚を指差す。見れば魔法陣の資料集が一面に並び、レポートを書くには十分といった感じであった。
「ああ、これなら大丈夫そうだ」
「よろしゅうございました。私はこれで失礼します」
「君もなにか探しに来たんじゃないのか?」
「はい。けれど私のは閉架書庫の本なので、司書さんに出してもらうだけです。今日はあなたとお話ししたかったのです」
「手間だったろう」
「いいえ。会えてよかった」
軽やかに踵を返せば初々しく長いスカートがこちらを一瞥するように翻って、空気を含みながら戻っていく。ナイトレイブンカレッジと交流の多い、私立女学院の正装だ。掛け値なしに彼女によく似合っていると思う。
──期待した。クロエという女の前ではただひとりの人間として有れるかもしれないと僅かに思った。そのことが己のカサついた意識をこの上なく静かたらしめる。これは自省である。彼女の向こうに知るよしもない自由の面影を見ている。ジャミルは足をなくしたような気持ちで「また」と彼女を見送るしかなかった。