暗黒城の迷い子


 暗黒城の出口を探してしばらく、ピーチは突然部屋の雰囲気が変わったのを感じた。それは「よくなった」という意味ではなく、どちらかというと、きわめて理解不能だった。コントンのラブパワーによる邪悪な気配が消え去る代わりに、今すぐ思考を放棄したくなるような、たまらない感覚が走った。

「お姫様?」
「きゃっ」

 驚いた。誰もいないと思っていたら、突然うしろから声が聞こえた。慌てて振り返ると、二十にも満たないくらいの美少女がいる。怪訝そうな顔つきで、腕を組んで立っていた。

「あなたは……いったい誰? ノワール伯爵に連れてこられて、捕まっているの?」
「いや別に。そもそもあのクッパとかいうやつの手下も、伯爵が捕まえたわけじゃなくて、勝手についてきただけだよ」
「じゃあ、あの人たちの味方なの」
「それも違うね。私はドドンタスたちみたいに、忠誠を誓って予言の執行を手伝ってるわけじゃないし、そういう意味では『連れてこられた』は間違いとも言えないけど……いちばん近い立場は、うーん、観客かな」

 あんまり抑揚のない喋り方だった。なんだかじいやの読み聞かせを聞いているみたいな気分になって、幾分か警戒が解けた。伯爵の側近であるナスタシアのように、こちらをどうこうしようという気はないように見えた。

「お姫様は、あの手下と違って、本当に連れてこられたんだよね。伯爵が言ってた清らかで美しい姫って、きみにピッタリだよ。ここから逃げたい?」
「当然よ。こんなところにいつまでもいられないわ」
「それはいいけど、お城を出たところで、ここはお姫様のふるさととは別の世界なんだよ。行くあてがないなら、助けてあげようか」
「本当?」
「自力で私のところまで来たから、お姫様にはその資格がある。まあ、今の私にどこまでできるかは、ちょっと分からないけど」

 美少女の言っていることは、いまいちよく分からなかった。しかしどういうわけか、伯爵一味を呼ぶでもなく、助けてくれるのだという。ピーチはこれを信用していいか、少し迷った。しかし、クッパの手下とはぐれた今、ワラにも縋る心地なのである。

「私、マリオのところに行かなくちゃいけないの」
「マリオ、マリオねえ。お姫様と一緒に来た、勇者のことかなあ。今は、古代の民の末裔と協力して、ピュアハートを集めてるみたいだけど。ハザマタウンにいるね」
「あなた、マリオを知ってるのね!」
「いや、知らない。でも半身の仰ることだから、間違いないよ。この世界のことは、なんでもご存知なんだ。じゃ、こっちに来て」

 ピーチが踏み出そうとした瞬間だった。ひと一人を囲むような透明の箱に閉じ込められ、身動きが取れなくなってしまった。美少女のやったことかと思ったが、どうやら違うようで、少し驚いていた。というか、呆れたような顔をしていた。

「空間魔法じゃん。あいつ、伯爵に忠誠を誓っといて、お姫様を逃がす気なの? まったく、いったい何を考えてるんだか……」
「な、こ、これって」
「怖がらないで。きみはハザマタウンに出るよ。半身の占いは、基本的に外れない。行ってらっしゃい」
「待って。せめて、名前を教えて!」
「名前? 聞いて何になるのか知らないけど、呼び名はスピカ──言っとくけど、きみを助けたのは私じゃないよ。お礼なら、道化師にどうぞ」

 バツン。という感じで、ピーチはいきなり空間ごと消えてしまった。そして次に目を覚ますときには、スピカの言う通り、勇者のもとにいるのである。一人取り残されたスピカは、どこからともなく現れた椅子に座って、ふうと息をついた。

「ディメーンって、マジで読めないやつだなあ」
「呼んだかい?」
「うわ、びっくりした」

 突然、道化が現れた。伯爵ですら素性の分からないというこの男については、スピカの半身もなぜか口を閉ざしている。あまり興味がないので、それでよかった。一般の倫理では伯爵の恩に報いるべきなのだろうが、伯爵はスピカに「いるだけでいい」と言う。だから、いいことも悪いことも口出しはしなかった。

「驚いたよ。まさかキミが勇者に加担するとはね」
「別に、なんとなく気が向いただけだし、未遂だよ。ディメーンが割り込んできたから」
「んっふっふ、なんのことかなあ」

 仮面が目元を隠しているから、笑んでいることしか分からない。ディメーンの真意は闇の中だった。

「ディメーンって、伯爵とは別のことを企んでる?」
「おやおや、ボクは正真正銘、伯爵さまの忠実なしもべさ。あのマドモアゼルを逃がしたのは、結果的にそれが黒の予言の執行に繋がるからだよ。それに!」

 ディメーンは陽気に人差し指を立てた。

「秘密があるのは、お互い様じゃないか。気になるなら、キミの半身とやらに聞いてごらんよ」
「そのことは、隠してないよ。言ってないだけ」

 半身──こと星神の残滓は、伯爵によって大ダメージを受けたが、しぶとくも生きながらえている。ひとたびその器として過ごしたスピカは、能力の一部を継承した。本人は未だ半身の行いだと思っているが、実際には自分のものになった権能を行使しただけだった。ゆえに、昔の真似事くらいならできるという次第。その「昔のこと」は、伯爵以外の知るところではない。

「キミは妙な子だね〜。異質と言ってもいい」
「自覚はあるけど、害をなす気はない。誰に対しても」
「そうかい、そうかい」

 ディメーンは特に思うところはないという感じで、ツと横を向いた。鋭角な鼻筋から顎にかけてが、空間を切り取る。なんとなく、関数みたいな顔をしていると思った。目元は見たことがないから知らないが、きっと世にいう美しい男なのだろう。

「キミを信じよう。良い夜を」
「耳の後ろがゾワゾワするな……」
「それは光栄だね。では、オ・ルヴォワール!」

 来たときと同じように、道化はあとかたもなく消えてしまった。スピカは数秒ぼんやりしてから、弾かれたように「あ、やばい」と立ち上がる。それから「帰り道が分からない……」と、さして深刻でもなさそうに項垂れるのだった。