──ふと見ると、灰崎先輩が微笑んでいた。
「君は本当にバカね」
教室は西日で赤く染まっている。
体育館の点検で部活が無いのをいいことに、成績の宜しくない運動部員は揃って補習を入れられた。
単純なプリント課題を1人、また1人と終わらせて教室を後にする。
その背に続こうにも、授業の殆どを睡眠に充てている影山には至難の業だった。
「まぁ、智に働けば角が立つから君はそれでいいのかもね」
「…ウッス」
「意味も分からないのに返事をしない。はい、これでお終い。よく頑張りました」
「付き合ってもらってあざっした!」
「どういたしまして」
影山が筆記用具を片付けている間に、名前は机の上に散らばった消しゴムのカスをゴミ箱に捨て、開けっ放しだった窓を閉じる。
先輩の教室での姿が垣間見られ、影山は何やらむず痒い思いがした。
同じ教室で過ごしていたら、こんな感じなのだろうか。
「影山、鍵閉めるよ」
ちゃらん、と手の内で鍵を揺らす姿に追い立てられ、席を立つ。
この人が居てくれたなら、授業中だろうが休み時間だろうが、決して寝たりしないのに。
肩に掛けた鞄の紐をぎゅっと握って、息をついた。
──ふと見ると、灰崎先輩が微笑んでいた。
「ダーターファブラ、って聞いたことある?」
「何すか、それ」
「ラテン語」
「ラテン……ラテンアメリカの言葉っすか?」
「残念。むかぁしむかしの、ローマ帝国の言葉だよ」
ダーターファブラ。
耳に馴染まない響きを繰り返す名前と並び、坂道を下る。
前に伸びる影を追い、ずいぶんと経ったが、名前はその意味を教えてはくれない。
それどころか、小石を蹴り上げ、悪魔に影を売って周囲から厭われ、辺鄙な山奥で暮らさなければならなくなった男の話をし出した。
名前の語り口の、何と愉快なことか。
然したる面白味もないのに、影山は間抜けだなぁ、と笑みを溢した。
「どうして笑うの?」
唐突に足を止めた名前は、その端整な顔立ちに表情1つ浮かべずに、影山へと問いかける。
神妙に聞かなければならない話だったのだろうか。
返答に困る影山を置いてきぼりにして、名前はまたしてもダーターファブラと囁いた。
「名前を変えれば、君のことを語るお話なのに」
──ふと見ると、灰崎先輩が微笑んでいた。
足下を何かが掠めて視線を落とす。
珍しいことに黒猫がニャアともミャアとも聞こえる声で寄ってきていた。
触れてもいいのだろうかと、ウズウズしている間に名前はすっと影山の横を通り、脇道へと逸れて行く。
黒猫が逃げてしまうのが惜しくて声をかけられない。
ただただ、その背を目で追いかけていると名前の周りを数匹の猫が囲んだ。
そのうち2匹がそれぞれ、名前の膝下に頭を擦りつけてから前を行く。
行っては振り返りを続け、3メートル程の距離ができると、とうとう立ち止まって急かすように鳴いた。
名前は影山のことなど、すっかり忘れてしまったのか、自分を囲んでいた猫を伴って奥へと進む。
「灰崎先輩!」
黒猫は逃げない。
名前の歩みは止まらない。
単細胞な影山なりに寸の間考え、その背を追おうと黒猫を抱え上げる。
「情に棹させば流される」
軽薄な声色が影山の耳に刺さった。
肩に掛かる前足の脇に手を差し入れ、黒猫と向き合う。
べろんと後ろ足を垂らした黒猫は苦しそうにブニャアと鳴いた。
──ふと見ると、灰崎先輩が微笑んでいた。
ネットを挟んだ向こう側で、及川や岩泉など、青城のメンバーと共にこちらの様子を窺っている。
及川がゆっくりと影山の後ろを指す。
「トビオちゃんには、そいつらがお似合いだよ」
促されて振り向くと、見慣れた烏野のメンバーが身動ぎ1つせずに立っていた。
だらりと両腕を下げ、俯き加減の皆の中で特に異様なのは、頭にネジをつけた日向だった。
何を巫山戯ているのかとネジを掴んでも、日向は言葉を発さない。
取れないならばと試しに巻いてみると、節という節から錆びついた音を響かせて日向が動いた。
「オレニトス、モッテコイ!」
虚ろと目が合う。
思わず後退りするもネットに阻まれて距離が取れない。
視線を巡らせると、澤村や田中の背にも日向と同じネジがあることに気づく。
もしやと恐る恐る背に手を滑らせるも、そこには何もなかった。
ほっと息をついたのも束の間、とうに腕の中から抜け出ていた猫がネット越しに背を上り、頭へと飛び乗った。
退かそうと手を伸ばすと、ひやりと冷たいものに触れる。
これは、ネジだ。
影山が認識した刹那、及川がくつくつと笑う。
「意地を通せば窮屈だ」
──ふと見ると、灰崎先輩が微笑んでいた。
どこから持ってきたのか、蓋のない四角い箱を大切そうに抱えていた。
かと思えば、名前は淡く光るそれをぞんざいに放り投げた。
ひしゃげた箱から転がり出た小さなバレーボールを黒猫が弄ぶ。
「とかくに人の世は住みにくい」
名前がしゃがみ込み、箱をひっくり返すのを、影山は隣からそっと覗き込む。
中身は北川第一の敷地のミニチュアだった。
──ふと見ると、灰崎先輩がいなかった。
目の前で黒猫がしきりに顔を毛繕いしている。
近くにあった猫じゃらしでじゃらそうにも、見向きもしない。
が、離れても行かない。
「お前、何なんだよ」
「吾輩は猫である」
軽薄な声色で間髪を入れず返されたのは、人の言葉だった。
くるりと辺りを見回したところで、影山以外の人の姿はない。
首を傾げ、視界の中央に黒猫を据えると、毛繕いに満足したのか、つんと澄ました顔を向けた。
「名前はまだ無い」
動物の言葉を理解したいと、誰もが一度は願う。
話してみたい、と。
しかしながら、動物とは意味の分からない声で鳴くから可愛いのであって、こんなにも流暢に口を利く様は不気味でしかない。
元よりニャアニャアとしか震えぬ声帯で言葉を発せば、然ような響きになるのも頷ける。
全身に鳥肌が立ち、影山は黒猫を置いて一目散に走り去った。
──ふと見ると、灰崎先輩が微笑んでいた。
名前自らコートに入り、バスケに興じている。
その相手は、名前の中学時代の後輩であることを、影山は以前見せてもらった写真で知っていた。
親しげに名を呼び、笑みを浮かべる様が気に入らないと、いつかの紫原のようなふて腐れた顔で眺める。
そんな影山に並び立ったのは、見当たらないと思っていた会ったことのある1人、赤司だった。
「あの懐かしい目で、優しい目遣いをたった一度でもしてもらえたら、『僕』はもう、それだけで死ねるんだけどね」
意味を問いかけることは叶わない。
目を向けた途端に、辺り一帯が霧がかった。
──ふと見ると、灰崎先輩がいなかった。
煙る視界をそのままに踏み出す。
もはや、どこから来てどこへ行くのかすら判然としないが、影山の歩みは止まらない。
前と決めた方向へ、ガサガサと地面にしては奇妙な音を立てながら真っ直ぐ進む。
次第に霧は晴れ、影山は音の理由を知る。
それは一面に広がる大量の真っ白い紙だった。
否、真っ白では語弊がある。
ある1枚はたった数行の日誌、ある1枚はスコアシート、ある1枚は個人のデータ表と、纏まりなく散らばっている。
どれもが、共通して名前の字だった。
無意識に紙から自分の名前を探す。
すると、「『影の濃い黒子』の名前は影山飛雄」という、今となっては理解できてしまう文言が目に入った。
他の紙と被って見えない部分を読もうと手を伸ばす。
しかし、影山の手が紙に触れる前に、黒い塊が勢いよく滑り込んできた。
紙の束が押し上げられ、宙を舞う。
どれが目当ての物か、あっという間に分からなくなってしまった。
落胆の思いで黒い塊を睨む。
それは、先ほど置いてきぼりにしたはずの黒猫だった。
「何なんだよ、ボケェ!」
「吾輩は猫である。名前はまだ無い」
こう何度も聞いていれば、多少、気持ち悪いとはいえ、慣れてくる。
影山は日向に言う調子で罵ったが、黒猫は素知らぬ顔で毛繕いをして見せただけだった。
「……名前、つけてやろうか?」
「否、結構。名前はまだつけてくれないが、欲を言っても際限がない。吾輩は生涯、この教師の家で無名の猫で終わるつもりだ」
右に左にふらふらと、小さな歩幅である家へと入っていく。
コンクリートの家が多い現代において、何とも贅沢な日本家屋だが、そこには門札も無ければ人の気配も無い。
奥から何かをひっくり返した大きな音がしたことで、影山は意を決し、家の敷地に入った。
誰がどう見ても、立派な不法侵入者だった。
──ふと見ると、灰崎先輩がいなかった。
薄ぼんやりとした夕日の淡い光に照らされた書斎。
文机に開いたままの本は癖がついていて、綺麗に180度に開いていた。
やや下の方に見苦しくも存在する染みは、よだれによるものだと影山は経験上、知っていた。
早々に視線を外し、更に奥へと目を凝らす。
ちょうど黒猫が何かに躓き、4足歩行にあるまじきつんのめり方をしていた。
一度、腰を落ち着けたものの、頭を前に後ろに緩慢に振り、飛び上がる。
その先は、大きな大きな、影山でさえも入れそうな大きな甕だった。
黒猫は縁に後足が一瞬だけ掛かり、ばくりと甕に食われた。
影山は、鍵の壊れたガラス戸を襖の如く音を立てて開け、土足のまま中を踏み荒らし、勢いそのまま甕へと飛び込む。
共に飛び込んだ空気と吐いた息が、ごぽり、と目に映る。
黒猫を助けてやらなければ。
──ふと見ると、灰崎先輩が微笑んでいた。
名前が着古されたウエディングドレス姿で小川に浮いている。
緩やかな流れに乗ってドレスの裾が大きく広がるのをただ享受し、ぼんやりとした様子でどこか懐かしい思いのする歌を口ずさむ。
やがて水を吸ったドレスの重みで、徐々にその身が沈んでいく。
影山が川面に浮かぶ花を蹴散らし、一際目を惹く紅い花がその身を離れると、名前は喘ぐように言った。
「ああ、苦しい、今、死にたくない」
ぱちん。
悉くが弾け飛んで、そうしてやっと気づく。
ああ、夢を見ていたのか、と。
幾度となく名前を呼ばれ、顔を上げると青筋を立てる一歩手前のような教師と目が合った。
早くしろと威圧的な声に、影山は大事なものをこっそり教えるように返す。
「──オフィーリア」
下敷きにしていた、よだれの染みがついた国語便覧。
そこには、片肘をつく口髭のある男の写真と、川にその身を横たえる女の絵が載っていた。
Thanks for S.Natsume and Shakespeare.
prev /
next
back