夢箱


ゴー歩と王の写本と


高い高い建物の頂上を風がびゅうびゅうと取り囲む。
誰にも届かないような其処は一面が白い舞台のようで──誰も踏み入ることのできない空中庭園のようでもあった。
空中庭園と云っても、実際は庭も何も無い殺風景なただの建物の頂上なのだが────
其処に二つの人影がある。

「──今宵の演目は『偽りの盲愛』」

天高く昇った太陽を無視し『今宵』と語り出した人影は、遊園地でマジックショーでもしていそうな奇抜な白黒衣装の青年であった。
その声は、風に掻き消されるどころか風に乗るような高らかさである。

「この街に根を張る巨大な犯罪組織──其処で起こった盲愛の悲劇!」

演者のような微笑みを湛え、白黒衣装の青年は盛大に語り出す。

「──秘書の女は幹部の男に恋をしました。
彼女は男を想い、組織の頂点にすべく手を尽くすのですが──それはあまりにも盲目的でした」

──邪魔者を威嚇し、時には罵倒し、時には殴り、時には撃ち、時には殺し──そしてとうとう組織の反逆にまで至った。

血腥い内容を、青年演者は御伽話を紡ぐように穏やかに続ける。

「然し然し──驚くことに、実は秘書は幹部を愛してなどいなかったのです」

──それに気付いたのは、自分の行動が組織の背信にまで膨れ上がり、取り返しがつかないところまで来た後だった。

「偽りの愛で周りが見えなくなった裏切り者に待っていたのは粛清の死──!」

──そして裏切り者は思い出す。
“真に愛する者は別に居た”、と──

「なんと!憐れなことに女は敵の異能で洗脳されていたのです」

──敵の名は『王の写本』。
先導者ならぬ煽動者──オーディンの異能によって偽りの感情を植え込まれていた。

「偽りの愛に翻弄された憐れな女の生涯は、悲劇と共に幕を閉じました──とさ」

呆気なく、どうでも良いようにそう付け足して。
青年演者は「さあ〜て、此処でクーイズ!」と、もう一つの人影に向かってにこやかに問う──

「秘書を始末した処刑人はこのことをどう思ったのでしょうか?」

クイズと云う急激な路線変更に──然し、もう片方の人影は特に動じない。
話を聞いていたのか怪しいといって良いほど無反応だった。

それはそれで構わないのか、青年演者は質の高い微笑みのままその人影を──ただ一人の観客を見遣る。
観客は、成人になりかけの少女だった。(観客といっても椅子も何も無いので、じっと直立している)。
その顔は青年演者とは真逆に、感情とは無縁と云わんばかりの無表情で固定されていた。
年頃とは思えぬ其れは、然し不思議にも少女に似合っている。
どうやら此れが自然体の表情らしい。
少女の衣服も演者と同じく白いが、これも演者とは対立しており派手さはまるで無い。
研究者のようなその無機質な白衣は、無味乾燥を形にしたこの少女を表しているようだった。

「あ」と青年演者。
斜め上をちょい、と見上げる。芝居掛かった素ぶりだった。

「そういえば──殺したの君だったか!」
忘れた事を思い出したように、云う。
「──で、どんな風に思った?」
興味深さからか、嫌味なのか──にい、と口角を上げ青年演者は訊く。
彼が語った憐れな死を遂げた秘書の女──
今となってはもう名前を覚えている者が居るのかすら定かではないが──名を射鹿まりと云った。
然し、観客の少女──歩にとっては決して忘れることのない名前であった。
青年演者の言う通り、射鹿まりを裏切り者として始末したのは他でもないこの少女── 白衣の処刑人、歩だ。

二人が立つ建物──
その眼下に広がる街、ヨコハマ。
その街の暗部であるポートマフィア──
其処に所属する歩は白衣の処刑人の名の通り、裏切り者を処分する役割を担っている。
そしてこれは裏社会の共通認識だが──殺人が仕事の大半である組織にとって、殺してきた人間は食事の内容と同様、いちいち覚えてなどいない。
無論、歩も例外では無かったのだが──射鹿まりのこととなると話は別だった。

「……どうして」
静かな少女はやっと口を開く。
「──そこまで知っているんです?」
風に掻き消されそうなほど控えめな声量で、最たる疑問を口にした。

“射鹿まりには別に想い人がいた”──

それは射鹿本人が歩に処刑される寸前に吐露した本心である。
射鹿が洗脳されていた事は義務として上司に報告したが、射鹿の私情までは伝えていない。

そして処刑の場に居たのは射鹿と歩の二人だけであった。

それなのに目の前の青年演者はどうだろう。
まるで隣で見ていたかのように語ってみせた。
見た目通り──手品でも使ったかのように把握していた。
歩と同じ組織でもなく、仲間でもない──否、だからこそ知り得た情報なのかもしれなかったが──

「さあ、どうしてでしょう?」
青年演者は首を傾げて、楽しげに目を細める。
精巧に作られた人形のようなその微笑みからは心中が全く窺えない。
言動からして真面に答える気は無いらしい。
──それもそうだ。
遊園地でマジックショーでもしていそうな奇抜な白黒衣装のこの青年、実は見た目通りの道化師であった。
何時だって人を化かして振り回し、周囲を強制的に自分の世界へと引き込み──否、巻き込んでショーの一部にする。
白衣の処刑人たる歩も巻き込まれる側だった。
ただ、所属も役職も身分も違う二人の間柄は会話から察するに絶妙ではあるものの──犬猿の仲でも敵同士でもないのは確かなようである。

びゅうびゅうと吹いていた風は何時の間にか止み、慌ただしくはためいていた二人の白い衣服は大人しくなる。

「……それで、その話が何だって云うんです?」
風が止み、先程よりも声が聞き取りやすくなる。
歩は仕方なさそうに話を振った。
青年演者──道化師から情報の入手法を訊くのを諦めたようだった。
実際、それは賢明と云える。
この道化師に真面に物を尋ねても白を切られるだけだ。
それを理解しているくらいには歩は道化師を──ゴーゴリを知っていた。
「よくぞ聞いてくれました!」
待っていたと言わんばかりの勢いでゴーゴリは得意げに声を張り上げる。
最初から愉快で大きい声ではあったが、核心を突かれて更に気分が乗ったようだった。
「──これは彼女だけの問題では無いという話さ」
少しだけ、神妙な声色でそう切り出す。
今までの語りはどうやら前振りだったようで、これからが本題らしい。
「王の写本って奴は、異能だけをみれば恐ろしい集団だったんだろう?特にオーディンの洗脳の異能は悍ましい!『王の写本編』の歩ちゃんに関わらなくて良かったと心から思う!」
「……慥かに貴方にしてみれば最も嫌悪しそうな異能ですが……あれは誰にとっても脅威ですよ」
──『王の写本”編”』って何だ。
と、口には出さずに歩は話を合わせる。
「それで、彼女──射鹿さんだけの問題では無い、とは?」
「あ、そういう名前だったんだ秘書の人」
動物みたいで覚えやすい!と道化はからからと笑う。
──彼処まで知っておきながら名前は知らなかったのか。
此れも口には出さないでおいた。
──ひょっとすると知らないふりをして此方の反応を楽しもうとしているのかもしれない。
その可能性を否定できないところがこの青年道化師の人となりなのだろう。
余計な反応はするまいと歩は決めているようだった。

ゴーゴリはごほん、と場を改めるように咳払いをする。
さり気ないその動作から──突如、雰囲気が一変した。

「──好きって云う感情は何処から来てるんだろうねって話」
最初の愉快さは何処へやら、調子づいていた声が勢いを無くし──深海のように沈む。
彼らしからぬ振る舞いだった。
否──歩は知っている。
この状態のゴーゴリを──
初対面の時と、似ている──
似てはいるが──あの時とはまた違う異様さが、彼の佇まいから見えない靄のように漂っていた。

「たとえば、僕はドス君が好きだ」
道化師はかけがえのない友人の名を挙げる。
魔人・ドストエフスキー。
歩とゴーゴリ、二人の共通の知人である。
道化師とは関係性が異なるが、歩にとってもドストエフスキーはかけがえのない存在であった。
「ドス君は僕の親友であり、理解者だからね。とっても好きだよ」
でもさ──と続けた。
「この気持ちも──洗脳によるものかもしれない」
そう云ってゴーゴリは空を──否、虚空を見上げる。
その顔は無表情で──普段から作り物の笑顔しか見せない彼からすると異常だった。
「──何故そう思うんです?」
歩は透かさず訊く。
彼の見上げた顔は小柄の少女には見えなかったが、異常を察するには十分だった。
彼の異常の捌け口を作るように話の先を促す。
「だって、そうだろう?僕のこの気持ちも、もしかしたらオーディンのような異能者によって植え付けられたものかもしれないじゃない?」
──そうではないと言い切れる証拠が無いんだよ。
ゴーゴリは滔々と語り出す。
ゆっくりと正面に戻した顔は無表情のままで、生気に乏しい。
これはこれで人形のようだった。
微笑んでいる時も人形のようで無表情の時も人形のようで──道化の表情は何処までいっても道化だった。
「この際、異能かどうかは別にしようか。それでも洗脳されていないとは証明できない──」
道化の持論は、続く。
「何故、理解者だと好きなんだろう?いいや、ドス君が僕の理解者だと分かる前から僕はなんとなくドス君に好感を持っていた。どうしてだろう──」
繰り返される自問自答──流れるようなそれに口を挟めば、何かが破裂しそうだった。
「そうそう、シグマ君の驚いた顔も好きだよ。彼の驚いた顔は普通っぽくて好きだ」
シグマ──彼もまた、二人の共通の知人である。
「でも、でも──」と、道化は矢継ぎ早に言葉を詰める。
思い詰める──
「どうして驚いた顔が好きなんだろうね?別の表情が好きでも良いし、なんなら嫌いでも良いじゃない。嗚呼、どうして僕は人を驚かせることが好きなんだろう?どうして奇術が好きなんだろう?──何時から好きだったんだろう?」
──元を辿れば辿るほど判らないんだ。
ゴーゴリは俯き、人形のように白くて美麗な顔を、赤い手袋で覆った。
その仕草は心理的な負担からだろうが──天性の道化師として、見せられない表情を隠す為の玄人の所作にもみえた。

今更ではあるのだが──これも実は、演技だったりしないだろうか。
『苦悶する道化師』という題のショー。
嘘と本音の境界を──『本当の自分』をずっと曖昧に披露してきた道化師だ。
あとから「冗談だよ」とパッと明るく笑って何事も無かったように振る舞ったとしても不思議ではなかった。
実際、歩もこの手法を取られたことがある。

それに加えて、彼は病的なまでに自分が疑われるように普段から振る舞っているのだから、此処まで条件が揃うともう疑うしかない。

だとしたら顔を隠した掌の奥で今も笑っているのだろうか──
観客が騙されていることに、観客を欺いていることに喜びを感じて──

何にせよ、ショーは止まらない──

「『好きに理由は要らない』って云うけどさ。
実際は”要らない”んじゃなくて『好きな理由が分からない』と云う真実を誤魔化す為の方便なんだよ、あれは」

ゴーゴリは直立してはいるものの──今にも崩れ落ちそうなくらいに声は弱々しく、脆くなっていた。
ついさっき演技の可能性を疑ったが──話の内容を聞いていると、この際どうでもよくなるくらいに彼の心中が気になった。(これが道化の目論見ならば見事術中に落ちたことになるのだが)。

「歩ちゃん、君はどうなの?どうして重力遣いの幹部を好きになったのか分かるかい?」
道化の苦悶は少女に向けられた。
「優しいから好きになったのかな?優しいからってどうして好きなの?他にも優しい人に出会ってきたんじゃない?それなのに沢山いる人間の中でどうして──幹部を好きになったの?」
弱々しくも捲し立てるように道化師は観客に訊く。
「秘書は洗脳によって、何でもない他人に抱いてもいない感情を抱かされた。決して他人事じゃないんだ。自分もそうかもしれない」
──だからね、と。
道化は極言を突き付けた──
「歩ちゃん──君ももしかしたら、ひょっとしたら──君が始末した秘書のように実は洗脳されていて──本当は幹部ではない別の人を好きなのかもしれないよ?」
──そうではないと証明できるかい?

道化師の独り語りが続いて存在が希薄になっていた少女に厄介な問いが投げられる。
しかし歩は──答えない。
表情も何一つ変えることは無かった。
道化師との最初のやりとりを思わせる無反応振りだったが──
こればかりは無言でいるほかなかった。
実際に答えられないと云うのもあったが──下手に答えて、触れてはならないものに触れてしまったら、と云う危機感による沈黙。
彼の問いに──答えない事で、応えたのだろう。

その意図が彼に伝わったのかは判らない。
道化師は返答が無い事を気にしていないのか、それとも期待すらしていなかったのか、そのままの調子で話を続けた。

「やっぱり僕達は洗脳されているのさ──
人間には認識できない領域に居る何者か──”神”って奴だ。
其奴が感情を仕組んで、仕込んで、仕向けたと云うのなら── 辻褄が合うんだよ。
それが真実なら僕達はお手上げさ。文字通り手も足も出ないし、何処まで行っても何時まで経っても神様の掌の上ってことなんだからね──」

ポートマフィアを襲った異能力者集団──王の写本は『神殺し』を成そうとしていた。
自分達の人生を狂わせた『神』への激しい憎悪を清算し、自由を得るために──
そう、自由────
王の写本とは根本から違うが──道化師もまた、自由に固執し自由を求めていた。

だからだろうか。
『神さえ殺せば自由になれる』と躍起になっていた王の写本の立場が、彼にも分かるのかもしれない。
ただ一つ、王の写本と違うのは、道化師が唱える『神』は”この世界”にはいないと云う事──

王の写本を引き合いに出したのは──
射鹿まりを引き合いに出したのは──
彼の人生の命題たる『洗脳からの自由』に関与していたからだった、と云うことか──

「あー嫌になっちゃうよ、絶望だあ。
僕達に自由意志など存在しないと異次元から指を差して面白がっているんだから──」
白い顔は依然、赤い手袋で覆われており表情が見えない。
その姿は色合いの関係で、白い顔にべちゃりと真っ赤な血が付着しているようだった。

「コーリャ」
突然、平素な声が掛けられる。
ゴーゴリがぴく、と反応した。
コーリャ──ゴーゴリの愛称──
その声の近さにゴーゴリは俯いたままではあったが、顔を覆っていた赤い手をゆっくりと退かす。
俯いた視線の直ぐ先には──案の定、無表情が似合う少女が居た。
──無表情なのに、何処か柔らかな印象だった。
「お話の最中すみません」と歩は断りを入れる。
「取り敢えず、何か食べませんか」
「────へ?」
慰めでも救いの言葉でもない、話の腰を折るような、突飛で平凡な提案。
目を丸くし、ぱちぱちと瞬きをするゴーゴリに歩はそのまま続ける。
「どんな事にせよ、体が資本です」
「……う、うん?」
微妙な反応しかできないゴーゴリに歩も同じように俯いて──控えめに、遠慮がちに、また顔を上げて、もう一度──提案する。
「……なので、まずは……腹拵えが大事……かと、考えたのですが……」
声が尻すぼみになる。
突飛で平凡過ぎる提案に彼女自身、今の状況に全く合っていないと云う自覚は十分にあったのだろう。
深刻になった道化師の、複雑に拗れた持論に対する回答でも正答でも助言でも何でも無いのだから無理からぬことである。

然し此れが白衣の処刑人の、年相応の等身大の精一杯さで。
飾り気の無い──平凡な思い遣りだった。

ゴーゴリは驚嘆こそしていたが──かと云ってその平凡さに気を悪くした様子は無い。
──彼女らしい。
そう分かるくらいには、ゴーゴリは少女を──歩を知っていた。
この無味乾燥で真面目で平凡な少女を、滑稽で素っ頓狂で非凡な道化師は──知っていた。

「……私には、コーリャの求める答えらしきものはきっと判りません」
歩は道化師の苦悶にやや触れる。
「ですが、それは多分──誰かに与えられるものではなくて、コーリャ自身の手でしか得られないような気はします」
──それができないから困っているんでしょうけど……。
そう溢し「それでも」と、歩は続ける。
「切羽詰まった時は大抵身体の調子が良くない時です。なので気晴らしに食事でもと思ったのですが……」
それとも何か飲みますか?と付け加える。ほぼ同義であった。
何処までも平凡、何処までも凡庸、何処までも凡人──
その普通さに道化師は呆れたのか絆されたのか──溜め息を吐いた。
──非凡な道化師の、平凡な溜め息だった。

「──歩ちゃんへのこの気持ちも、洗脳によるものなんだろうね」
道化は片目を覆っていた仮面を取ってみせる。
此処に来て初めての素顔だった。
その顔には──何処か吹っ切れたような、ささやかな笑みが浮かんでいる。
その表情には少しの皮肉と苦さが混じってはいたが──何処か満足げにみえて。
何も解決していないし何も救われていない──
何も判らないし何も変わらない──
それでも道化の何かはほんの少し救われて──ほんの少し変わったようだった。
それがほんのいっときのことで直ぐに消えるのだとしても──痛み止めのようなもので、直ぐ元通りになるのだとしても──再度、地下のように暗澹とした迷いの中に入るのだとしても──今はそれで良かった。

人形のように精巧な微笑みが、青年の顔に戻る。
迷える青年は”道化師ゴーゴリ”に──正常に、戻った。

「……『身体が資本』だ、なんて。君が云っちゃう?」
外した仮面を元に戻して、ゴーゴリは苦笑する。
無理も無い。
無味乾燥を形にしようなこの少女、今は無傷だが実は生来から満身創痍でもあった。
「……今はできるだけ大事にするように努めていますよ」
「否、あのお店での事件のこと忘れてないからね?!」
それは彼女の過去と異能に纏わることなのだが、これはまた別の話──
「ま、良いけどさ!それにしても奢ってくれるなんて太っ腹だなあ!何食べよっかな〜」
「否、奢りとは云ってませんけど……」
声も口調も元の陽気さで道化師は少女を揶揄い、戯れる。

そうして道化師は流れるような動作で自身の白外套をカーテンのようにして──少女を柔らかく包み込んだ。

刹那──忽然と、跡形もなく二人は消える。
大掛かりの手品でも使ったかのような有り様だった──

高い高い建物の上──
誰にも届かない、一面が白い舞台のような其処は──何も無い空中庭園のような其処は──こうして無人となる。

『舞台は此れにてお開き──』
道化が唱えた“人間には認識できない領域に居る何者か”──

無人になった舞台は“画面外の何者か”に──暗にそう告げているようだった 。

2025/05/26

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