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雑渡さんが今日は帰ってこない。出張だ。
たまに出張に行くことがあるらしい。雑渡さんは出掛ける前はそれはそれは嫌がっていた。寂しい、つらい、行きたくないとぶちぶち言いながらも、ちゃんと下調べをしてから行っていることを私は知っていた。
雑渡さんがいないと、何をして過ごしたらいいのかよく分からない。ご飯を作る気も起きなくて適当に済ませてしまった。思い起こせば、一人暮らしを始めた時から雑渡さんと過ごしていた私は、あまり一人で過ごしたことがない。小さな自分の部屋にいることが寂しくなってきて、合鍵で雑渡さんの部屋に入る。当然、真っ暗だ。灰皿に残っている今朝吸っていた煙草を片付けて、何となく部屋を掃除した。冷蔵庫にはビールしか入っていない。物の少ない殺風景な部屋だなぁと思った。雑渡さんがいたら賑やかで、そんなことあまり気にならなかったけど、本もゲームも小物もない。私と会う前までは寝るだけの部屋だったと言っていたけど、それはきっと本当なんだろうなぁと思わせるほど生活感のない部屋だった。静まり返った部屋のソファに座る。
彼氏が欲しいな、とずっと密かに思っていた。そして、あっさりと大学に入った途端にできた。それはそれは浮かれたし、雑渡さんに同棲したいって言われて本当は嬉しかった。私とずっと一緒にいたいって思ってくれていることも、雑渡さんとずっと一緒にいられることも嬉しかったからだ。
ただ、同棲して上手くいくのかなとも思った。きっと喧嘩も増えるだろうし、私のことをたくさん知られてしまって、がっかりされたり、嫌いになられたらどうしようとも思った。
今回、喧嘩になった男の子との関わり方云々は咄嗟に言った話だ。いや、まぁ本当に内緒で男の子を家にあげていたんだけど。それ以外にも私が同棲を躊躇う理由がある。
実は生活が変わっていくことは少し怖い。お母さんが死んだ時のことを思い出すから。お母さんがいなくなって、私は家のことを必死でやるようになった。私の生活は一変したけど、別にそれが不幸だとは思っていなかった。だけど、お父さんに認めてもらえなかった。文句ばかり言われ、家を出なさいと半ば強制的に一人暮らしをさせられた。優しかったお父さんは変わってしまった。
雑渡さんも変わってしまうのだろうか。だとすれば、同棲なんてしたくない。優しくて、私を大切にしてくれる雑渡さんが変わってしまったら、私はきっと耐えられない。
どうしよう、嫌なことを思い出したら雑渡さんに会いたくなってきた。電話しようかな。でも、雑渡さんは明日、早い新幹線で戻ると言っていたからもう寝ているかもしれない。
寂しさのあまり私が膝を抱えていると、ドアが開いた。驚いてドアの方を見ると、嬉しそうに笑う雑渡さんがいた。


「来てたんだ」

「えっ…出張は?」

「最終で帰ってきた」

「どうして」

「なまえの寝顔くらいは見たいなと思って」


疲れたーと言いながら抱き締められ、思わず涙が出そうになった。寂しかった、なんて言ったら重いと思われてしまうだろうか。この温もりが恋しかった、と言ったら雑渡さんは何て言うのだろうか。そんなことを考えながら大きな背中に手を回した。部屋が一気にいつもの賑やかで明るいものへと戻っていく。あぁ、私、雑渡さんに依存している。雑渡さんがいないと私の生活はもう上手く回らなくなってしまった。
この人と一緒なら生活が変わっても平気かもしれない。例え雑渡さんが変わってしまっても、私が雑渡さんを好きって気持ちは変わらないだろうから。こんなにも好きだから。


「雑渡さん」

「うん?」

「好きです。大好き」

「…熱でもあるの?」


ぺたりとおでこを触られた。ひんやりとした手が気持ちいいけど、失礼な話だ。私だって極々稀かもしれないけど、自分から好きって言うことくらいある…いや、まぁ珍しいかもしれないけど。ただ、急に言いたくなっただけなんだけどなぁ。


「あ、あぁ、そうだ。お土産買ってきたよ」

「えっ。何ですか?」

「なんか、有名なんだって。えっと…」

「?」


話し方がいつもと異なっていることに違和感を感じた。ごそごそと鞄を漁る雑渡さんの顔を覗き込むと、頬が赤く染まっていた。いや、何なら耳まで赤い。


「…もしかして、照れてます?」

「そりゃあ、まぁ…」

「えー。珍しいですね」

「だって、なまえからそんなこと言ってくれるの、珍しいじゃない。調子狂うというか…」


そう言って雑渡さんは顔を覆った。何この人、可愛い。
雑渡さんは大人だ。前は大人はこんなことくらいで照れたり、狼狽えたり、喜んだりしないと思っていた。だけど、雑渡さんは私の言葉ひとつでこうして一喜一憂してくれる。それが私はとても嬉しかった。
あまりにも雑渡さんが可愛くて、くすくすと笑いながら抱き付く。あぁ、私、この人が好き。ずっと側にいたい。


「…何か、馬鹿にしてるでしょ」

「いいえ?可愛いなぁと思って」

「馬鹿にしてるじゃない」

「してませんよ。それより、疲れてます?」

「まぁ、それなりには」

「じゃあ、明日は家で過ごしましょう」

「家で?」

「ちょっと、聞いて欲しい話があるんです」


これまで誰にも言ったことがなかったけど、雑渡さんには知っていて欲しい。お父さんとの関係性も、私が変化を恐れていることも。だけど、雑渡さんと一緒なら変わっていくことも受け入れられる気がする、ということも。
私は雑渡さんと出会ってから変わった。泣いてばかりだったあの頃とは違って、強くなった。雑渡さんが教えてくれたから。人を愛すること、愛されることの喜びを。


「…なに、話って」

「そんな警戒するような話ではないですよ?」

「本当だろうね?」

「本当ですって。大した話ではないので」


雑渡さんにとっては、だけど。
明日、お父さんのことを話して、そして、同棲したいと伝えよう。雑渡さんのことが大好きで、側にいてくれないとつまらないと伝えよう。
いつも側にいてくれていたから分からなかったけど、こうして隣にいることが出来て幸せだと心から思えたから。


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