「ねぇ、鬼さん」

「はい」

「ごめん、浮気した」

「はい。…はい?」

「浮気した」


ガチャーン、と派手な音をたててグラスが割れた。
思考が停止すること5秒。ようやくグラスが割れたことに気付いて足元の破片を拾う。高かったのに。グラスを片付けながらなまえが言ったことを思い出す。いや、そんな、まさか。浮気だなんて、あり得ない。


「冗談ですよね?」

「いや、マジ」

「つまり」

「大事な人ができた」


カチャーン、と拾った破片が落ちた。さすがに今度は砕けなかった。
えっと、え?


「私の他に?」

「うん」

「好きな人が?」

「うん」

「つまり浮気だと?」

「うん」


えっと、これは最終通告?
おかしい。つい今朝までごく普通だった。朝ご飯はいつも通り洋食にしたし、今日のオムレツは会心の出来栄えだった。つまり、なまえが会社に行っている間に何かが起きたということか。仕事中に社内の男と…?もしくは、本当はずっと前から浮気をしていたけど遂に私に愛想を尽かして間男に移ることにしたのか。
どっちにしても最悪だ。
青ざめる私とは対照的になまえはソファーに深く座って寛ぎ始めた。


「あの、いつから…」

「8週間位前かな」

「8週間前…ですか」


8週間前。二人で温泉旅行をした。滅多に休みが取れないなまえが珍しく、本当に珍しく有給を取ったから行った旅行。
貸し切りの露天風呂に二人で入ったりした。一組の布団に枕を二つ並べて、シチュエーションがいやらしいねなんて笑いながら寝た。風呂上がり特有のいい香りと浴衣姿に煽られて、その夜は久々に…いや、まぁそれはいいとして。


「それで、あの…」

「うん?」

「どうするつもりです」

「仕事辞めるよ」

「辞めるって、つまり…」


相手は会社の男か。
私はいわゆるサラリーマンという仕事に就いたことは一度もなかった。ずっと料理研究家というか、まぁ、本を出したりテレビに出させてもらったりしている。普段は馬鹿みたいに家で料理をしている私と対照的にキャリアウーマンのなまえは私といても退屈だろうなと常々思っていた。
だから何となくこんな日が来るような気はしていた。


「分かりました」

「ねぇ、嬉しい?」

「…まさか」

「…そっか」

「相手はどんな奴です」

「さぁ。まだ小さいから」

「小柄ですか」

「いま15.4mmだって」

「そうですか、15.4mm…え、15.4mm?」

「ねぇ鬼さん、この子産んじゃ駄目かな?」

「えっ」

「え?」

「まさか妊娠した…?」

「うん。さっきからそう言っているじゃない」


カシャーン、と今日一番派手な音を立てて、落ち着こうとしてコーヒーを淹れようと用意していたカップと砂糖入りの瓶が割れた。
なまえが言った言葉の意味はまだ脳が処理しきれていないから理解できていない。
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