「はい、あなた」

「ん。ありがとう」


夫に手渡した鞄はもう随分と古くなってしまった。確か買ったのは15年前の彼の誕生日だったから…そろそろ限界ねぇ。
この人と結婚して早いもので30年。娘はお嫁に行ってしまったし、息子は孫娘の虜になっている。随分と静かになった。駆け落ち同然で結婚した私たちは、見知らぬこの土地で一からやり直してきた。それが、今ではお隣さんと歌舞伎を見に行ったりするようになった。いつのまにか、ここが私たちの帰る場所になった。


「今日は遅いの?」

「いや、7時には帰るよ」

「そう」

「いってきます」

「いってらっしゃい」


彼を見送って、洗濯をする。結婚した当初は洗濯もできなくて、呆れられたな。昔は、いってきますのキスとかしていたわね。懐かしいわね。いつからか自然としなくなってしまったけど、今から思えば恥ずかしくもなくよくやったものね。
適当にお昼を済ませて、掃除機をかけていると電話が鳴った。娘からだった。


「お母さん?おめでとう」

「あら、今日は何かの記念日?」

「やだ。結婚記念日じゃない」

「え…あら、本当ね。忘れてた」

「もー。信じられない」

「そんなものよ、夫婦なんて」

「私は彼と毎年祝ってるもん」

「ふふふ、そう」


初めだけよ?なんて言わない。夢を壊すには早すぎる。まだ、結婚して3年か。電話を切って、風に揺れている洗濯物を見ながら私は懐かしいことを思い出す。彼と結婚して5年までは、毎年お祝いをしていた。薔薇の花束なんか持って会社から帰ってきたりね。嬉しかったなぁ。
子供が生まれて気付いたらあっという間に年をとっていた。激動の30年だった。あの人は覚えているのかしら。今日が結婚記念日だということを。きっと、忘れているわ。私も忘れていたぐらいだし。
お味噌汁を作りながら、彼の帰りを待つことも今となっては日常になっている。あの人、和食が好きだから。ふふ、何だか今日は懐かしいことばかり思い出す。


「ただいまー」


彼が帰ってきた。玄関まで出迎えると、彼がとても懐かしいものを抱えている。25年ぶりに見た花束は、昔もらったものよりも本数が増えている。昔は貧しくて薔薇なんて高級品、買えなかったから。


「どうしたの?」

「どうしたのって…今日は結婚記念日だろうが。何だ、忘れていたのか?」

「うん、って言ったら怒るかしら」

「いや。なまえは昔から忘れっぽいから」

「そうね…」


名前を久しぶりにこの人に呼ばれた。結婚した時は、年老いても名前で呼び合う様な夫婦になろうと言っていたのにね。
相変わらず照れ屋な彼は私に花束を渡して、スタスタと歩いていってしまった。これは30年経っても、変わらないのね。


「ねぇ、あなた」

「何だ」

「私のこと、愛してる?」

「…何だ、今さら」

「あら、いいじゃない。今日は結婚記念日なんだもの。久しぶりに聞きたいわ」

「………愛してるよ」

「私もよ、陣左」


にっこりと笑った顔は30年前と違って皺だらけだけど。それでも、私のことを昔のように可愛いと言ってくれるかしら。
萎びたネクタイもヨレた鞄も、傷だらけの腕時計も。みんな私があげたものだ。とても大切に何年も使ってくれる。結婚当時は恥ずかしがって着けてくれなかった結婚指輪も、すっかり馴染んでいる。
彼の背広を受け取って、ハンガーにかけてから代わり映えしない夕飯を食べた。


「食事に行けばよかったかしら」

「なまえの飯が一番うまいよ」

「ふふ、今日は随分と優しいのね」

「たまには、な…」

「ねぇ、陣左。私たちずっと一緒よね」

「当たり前のことを言うな」


そうね。一緒にご飯を食べることも、眠ることも、もう日常になってしまった。でも、この当たり前の日常が私にとっての幸せだわ。死ぬときまで、隣にいる。
結婚した当時は光っていたプラチナの指輪は今となっては、くもっているけど。でも、私の心はあの時と変わらないわ。彼にそう伝えると、恥ずかしそうにお味噌汁を飲みながらそうか、と言われた。
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