彼はいつもの席にいた。今どき見かけない着物で煙管をふかしながら。
ふと彼と目が合うと、いつものように彼は穏やかに微笑んで会釈をしてくれる。思わず私も微笑んで、いつものように彼の隣、カウンター席へと腰を下ろした。


「こんにちは」

「こんにちは」


さびれた古い喫茶店で万年筆を握っている男性は毎日必ず同じ席に座っていた。顔の半分は包帯に隠れている。見えている皮膚から察するに火傷したんだろう。
彼が醸し出す雰囲気が好きだった。穏やかで、とても優しい雰囲気だ。珈琲を飲みに行っていたはずが、いつしか彼と話をしに行くようになっていた。煙管から香る甘い香りは麻薬のようにゆっくりと脳に浸透していくようだ。
メニューも開かず、私はいつものようにアメリカンとチーズケーキを注文した。そうっと彼の顔を覗くと、彼と目が合ってしまい、またにっこりと微笑まれた。どうしてだろう。彼のことを何も知らないのに、好きになってしまったなんて。
マスターが淹れてくれたアメリカンを口にして、フォークを握ると彼は笑った。


「君も本当に好きだね」

「あら。雑渡さんこそ」

「ここのケーキは絶品だからね。他所とは一味違う」

「ええ。太りそうです」

「意外に乙女なんだね」

「…意外って何ですか」


くすくすと笑いながら雑渡さんは珈琲を口に含んだ。彼はブルーマウンテンだ。
外は随分と冷える。それはそうか、雪こそ降らないけど1月の半ばなんだから。冷気で冷えた鼻が珈琲の湯気でじんわりと温まって少しだけくすぐったくなる。鼻を擦ると、何がおかしいのか雑渡さんはくすくすと笑って私を見つめていた。


「どうかされましたか?」

「いや、実に興味深い…」

「え?」

「いーや。こっちの話さ」

「はあ」


気にしないでと雑渡さんは笑ったけど、興味深いなんて言われたら気になるよ。
コポコポとサイフォン式の機械の音だけ店に響いている。ここはいつも静かだ。だからだろうか。ドクドクと心臓の音がうるさく聞こえるのは。止まりそうだ。彼にこの音が聞こえたらどうしよう、とついあり得もしない心配をしてしまう。


「わ、私、そろそろ…」

「もう行っちゃうの?」

「お仕事の邪魔ですし」

「邪魔じゃないよ」

「でも、うるさいし…」

「そんなことない」

「でも、えっと…」

「もう少しいてよ」

「…はい」


きっと、私の顔は赤いだろう。雑渡さんはそれに気付いているのかいないのか。ふと雑渡さんは笑って、再び煙管を口にした。珈琲の苦い香りと共に甘い香りが鼻をくすぐって、思わず鼻を擦ると笑われた。
雑渡さんは小説家。36歳。そのくらいしか彼のことを知らないけど、独特の甘くて不思議な雰囲気を持っている人。そして、私が密かに想いを寄せている人だ。
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