「こんにちは」
「こんにちは」
今日も私は雑渡さんの隣に座る。いつものように注文を済ませ、雑渡さんの手元を見ると原稿用紙に達筆な字で文字が綴ってあった。古い万年筆だけど、とても綺麗な朱色の万年筆は雑渡さんによく似合っていた。
珈琲を口に含んで、ふうと息を吐くと、彼はくすくすと笑って話しかけてきた。
「今日は随分と冷えるね」
「ええ。朝が辛いですね」
「なまえちゃん、仕事は何をしているの?」
「学生です」
「え。今、いくつ?」
「今年で24歳ですよ」
珈琲のいい香りと雑渡さんの吸う煙管の甘い香りが私の鼻を優しくくすぐった。
そういえば、私は雑渡さんに自分のことを話すのは初めてかもしれない。いつも話をしているのにお互い何も知らない。初めは私がまだ学生ということに驚いた様子だったけど、いつものように彼はのんびりとした口調で笑いながら言った。
「そう。学校はいいの?」
「ええ。じき卒業ですし」
「卒論は?」
「とっくに出しましたよ」
「そっか。じゃ、いいか」
包帯に隠された口元。そこから吐き出される煙が空気へとゆっくり溶けていく。
マスターコースまで進学した私は、卒業したらきっともうこうして彼に会えなくなると思う。初めからそういう約束だったから。だから、こうして彼の癖のある笑い方を見ることができるのも、あと2ヶ月だ。
「ねぇ、なまえちゃん」
「はい」
「卒業してもおいでよ」
「…ここに、ですか?」
「うん。待ってるから」
「…そうですね。はい」
無理して笑って見せた。ごめんなさい、それはできないんです。卒業したら私は好きでもない人のお嫁さんになるから。それは私が18歳の時から決まっていたことだから、別に今さら何とも思わない。ただ、雑渡さんには出会いたくなかったと思う。彼と出会わなければ、苦しい想いをせずに、何も考えずに嫁ぐことができたのに。
ポトリと角砂糖を珈琲カップに入れた。苦い心を甘くコーティングするように。
「珍しいね、砂糖なんて」
「そうですか?」
「何かあった?」
「いいえ、何もないです」
「…そう?ならいいけど」
「ええ。私は幸せです」
ぐいっと甘い珈琲を飲む。甘いはずなのに、何故か苦くてしょっぱくて不味い。
お願いだから私の心を見透かさないで。卒業なんてしたくない。ずっとこうして彼といたい。そう言えたらどんなに楽だろう。そう思いながら私は砂糖を追加した。
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