ついに雪が降った。石畳の通りがうっすらと白くなっていて、綺麗だと思った。大正浪漫通りは文字通り趣きのある街並みで、普段はそれなりに人通りもある。だから、こんなに閑散としていると少し不安になる。雪の影響とは恐ろしい。
今日はさすがに彼はいないだろうかと思って店を覗いてみると、ちゃんといた。少し顔がほころぶ。ゆっくりとドアを開けると、カランと古い鈴の音が鳴った。彼は振り向いて、にこっと穏やかに笑った。あぁ、彼は雪でも変わらないなぁ。
「こんにちは、雑渡さん」
「こんにちは。雪だねぇ」
「…寒くないんですか?」
「うん。さすがに寒いよ」
「風邪をひきますよ」
「あぁ、そうだねぇ」
こんな寒い日なのに着流し一枚なんて。珈琲館に来るまで、寒かっただろうに。風邪をひいてしまいますよと心配する私を見て、雑渡さんはくすくすと笑った。
「大丈夫。近いから」
「いくら近くても…」
「いや、本当に近い」
「はぁ…」
「一度来るといいよ」
彼はにっこりと笑ってから煙管を口にした。近いといっても限度があるだろう。相変わらず、のんびりとした人だ。その雰囲気に飲み込まれてから随分と経つ。彼は独身なんだろうか、それとも結婚しているのだろうか。それすら知らない。
私は彼のことを何ひとつ知らないのだ。名前は直接本人から聞いたけど、小説家という職業は直接聞いたわけではない。ただ、彼はいつも原稿用紙に向き合っているから小説家だと思っているだけだ。
珈琲を口に含みながら聞いてみようかと悩んだけど、やっぱり聞くのをやめた。未練が残るだけだ。今日だって、この後に結婚式の打ち合わせがあるのだから。
「なまえちゃん、悩み事?」
「…え?」
「最近、元気がないから」
「いえ…」
「私には言いたくない?」
とても悲しそうな顔をしながら彼にそう言われてしまった。彼に言いたくなかったけど、仕方ない。彼を悲しませたくない。
私は意を決して結婚することを伝えた。彼は驚いたように目を丸くした後、とても静かな声で短くそう、と返事をした。
「仕方ないんです」
「仕方ないって?」
「約束だったので」
親に捨てられた私は、施設から引き取ってくれた人と結婚しなければならない。初めから私は幸せになれない運命だったのだ。そう思うことにして生きてきた。長く心を殺して生きてきた私が彼に恋をしたことは不運だったのかもしれない。
パタパタとカウンターに水滴が落ちた。雑渡さんは見ないふりをしてくれているようで、珈琲を静かに口に運んでいた。
「だから、もう私は…」
「…やめちゃえばいい」
「…え?」
「結婚なんてやめなよ」
真剣な顔でそんなことを言われた。そうね、そうできればいいと私も思います。
でも、出来ない。
就職活動もしておらず、一切の補助を断たれしまっては私は死んでしまうから。だから私は結婚するの。だから、私は握られている手を離さなければならない。お願い、やめて。そんな悲しそうな顔をしないで。決意が揺るいでしまうから。
私の願いも空しく、彼に握られていた手の上からさらにそっと手を重ねられた。あなたが好きです。だからもうやめて。言おうとした拒絶の言葉は空気に溶けていくだけで、結局、私は拒めなかった。
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