雑渡さんは静かに私の手を握って、何か考えているように真剣な顔をしていた。この手を取ることができれば、どれほど幸せだろう。でも、私には到底無理だ。


「そろそろ…」

「なまえちゃん」

「早く行かなきゃ…彼と駅で待ち合わせなんです」

「…いくつの人?」

「今年65かな」

「…いいの?」

「ええ。いいんです」


にこっと笑うと、携帯が鳴った。着信は彼からだ。きっと駅に着いたんだろう。席を立って電話に出ようとすると、雑渡さんは携帯を取り上げて電源を切った。そして、雑渡さんは笑って携帯を返してくれた。


「地下鉄、止まってるよ」

「…え?」

「だから電波が届かない」

「………」

「今日はもう動かないよ」

「…はい」

「だからうちに泊まりな」


雑渡さんに手を再び握られた。時間が、止まった。そっと手を重ねると、安心したように彼は微笑んで名前を優しく呼んでくれた。
彼を愛してる。愛してるのに実らない。


「さてと。行こうか」

「行くってどこに?」

「私の家に。帰ろう」

「…いいんですか?」

「家に来てくれる?」

「…ええ。もちろん」


雑渡さんに手を握られたまま二人で店を出た。雪は既にやんでいた。寒くて息が白く、透けて見える。
ふと、雑渡さんは穏やかな声で言った。


「…月が綺麗だね」


空を見上げると、満月が浮かんでいた。目線を彼に戻して笑って私はそうですねと言った。すると、薄く笑われた。目を閉じて、うんと言ってから雑渡さんは歩き出した。
彼の様子がおかしくて、何か失礼なことを言ってしまったかと不安になる。そんな私の感情を読み取ってか、何事もなかったように彼はやわらかく笑った。


「うち、近いんだ」

「言ってましたね」

「というか、ここ」

「…え、本当に?」


彼は馴染みの珈琲館の向かいの分譲マンションを指差す。えっ、本当に近い…。
オートロックの自動ドアを開け、エントランスを抜けてエレベータへと向かう。902号室を開けると、部屋からは煙管の甘いにおいと雑渡さんのにおいがした。大好きな香りに思わず微笑む。靴を揃えて脱いで中に入ると、たくさんの書籍と珈琲を飲んだ跡のあるカップがあった。あぁ、雑渡さんの家だ。あまりに想像通りの部屋で、ついつい笑ってしまう。


「ごめんね、汚くて」

「汚れてませんよ?」

「そう?」

「原稿用紙以外はね」

「実は〆切後なんだ」

「作家さんですよね」

「売れない作家だよ」


雑渡さんは苦笑しながら床に置かれた原稿用紙を片付けた。小説家で合ってた。少しだけ彼を知れたようで嬉しかった私は捨てられた原稿用紙を見て微笑んだ。
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