家に帰ると、予想通り彼がいた。怒っているかと思いきや彼は心配してくれた。そして、この世で一番嫌いな時間を過ごして別れる。最高に気持ち悪い行為だ。それでも私は彼の子供を産むことになるのだから、この行為に慣れないと駄目。まるで汚されたかのような身体をお風呂で懸命に擦っても、出るのは血だけだ。溜め息を一つ吐いて、カレンダーを見つめた。もうすぐで私はお嫁さんになる。本当なら好きな人のお嫁さんになりたいと思う。大好きな雑渡さんのお嫁さん。でも、そんなことはできないと理解しているからこそ私は笑顔を繕って石畳の街並みをいつも通り歩く。
やっぱり彼はいつもの席に座っていた。ぺこりと会釈をして無理に微笑んでみせると、彼も苦しそうに微笑んだ。


「…大変だった?」

「いえ、平気です」

「そう…」

「雑渡さん、昨日はありがとうございました」


泊めてくれて、助けたいと言ってくれてありがとう。とても素敵な一夜だった。昨日起きたことが私にとって最高の思い出となることは確実に間違いなかった。
雑渡さんは珍しく首にマフラーを巻いていた。寒波が日本中に来ている割には薄着だけど、マフラーなんて初めて見た。黒いマフラーは彼によく似合っていた。そのマフラーをおもむろに雑渡さんは私の首に巻きつけて、悲しそうに笑った。


「雑渡さん?」

「…見せ付けないで」

「見せ付け…あっ」


もしかしたら、彼に付けられた痕が残っていたのかもしれない。ファンデーションでなるべく隠すようにしていたのに。途端に恥ずかしくなって、私は俯いた。マフラーからは雑渡さんの甘いにおいがした。


「…やっぱり、無理だ」

「え?」

「うん。堪えられない」

「ざ、雑渡さん…?」

「ごめん。今日は帰るよ」

「え!あ、あのっ…」

「それ、あげるから」


雑渡さんは目を細めて穏やかな顔で微笑んでから、店を私より先に出ていった。残された私は訳が分からない。もしかしたら彼に嫌われてしまったのだろうか。じんわりと滲む視界に突然、白いケーキが写った。私の大好きなケーキ。驚いて顔を上げると、マスターが困ったように笑いながら珈琲を足してくれた。


「雑渡から聞いた」

「…あの、マスターは」

「奴の古い知り合いだ」

「古い…お友達ですか」

「まぁ、どちらかといえば悪友だがな」


マスターは溜め息を吐いて、カウンター越しに私の頭を優しく撫でてくれた。マスターが雑渡さんから話を聞いたというのは、どこからどこまでなんだろう。そしてマスターは雑渡さんのことを知っているんだ。私の知らない雑渡さんを。


「あのっ…」

「ん?」

「彼のこと、少し聞いてもいいですか?」

「ああ」


マスターはにっこり嬉しそうに笑って、カウンターにフォークを静かに置いた。
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