ここは静かで好きだった。雰囲気のある古い珈琲館。そして、彼がいたから…。その彼と古くからの付き合いがあるというマスターの話が聞きたくて、食らい付くように私はマスターの方を見つめた。
「まぁ、飲みなさい」
「いただきます…」
「雑渡とは同僚だった」
「同僚って…会社の?」
「ああ。もう10年前だ」
マスターは懐かしそうに目を細めた。というか、雑渡さんも会社員だったんだ。私は彼のことを何も知らない。昨日、少しだけ彼のことを知れただけの情報だ。
マスターは自分にも珈琲を淹れて、静かに口に含んでいた。つられて私も飲む。
「あいつは会社員に向いていなかった」
「はい」
「それは私も同じでね。二人で辞めた」
「で、珈琲館を?」
「ああ。で、雑渡はフリーのライターになった」
「ライターさん?」
「初めはな。今は細々とだが、小説家をやっている」
「はい」
「だが、5年程前に奴は直木賞を取った」
「え!」
「そして、それを期に、あいつは変わってしまった」
「変わったって…?」
次々とマスターの口から出てくる言葉に驚きを隠せなかった。言葉を聞き逃さないように、私はゆっくりと噛み締めた。彼の核心に触れるような過去を私が、しかも人伝に聞いてもいいものだろうかという迷いは頭の隅から消え去っていた。
「何があったんですか?」
「その当時、雑渡には結婚を考えていた子がいた」
「…はい」
「直木賞を取って奴は裕福になった。途端に、彼女は金をせびるようになった」
「酷い…」
「それでも雑渡は彼女を愛し続けた。だが、数千万貢いだ辺りで次第に彼女は雑渡から遠ざかっていった」
「そんな…」
「そして、それ以来、奴は人を愛せなくなった」
「……っ」
「…何故、君が泣く?」
「だって、可哀想で…」
「そうだな。さすがに私も見ていられなかった」
雑渡さんほど素敵な人が独身だというのは何かしら理由があるとは思っていたけど、まさかそんなことがあったなんて。貧しい幼少期を孤児院で過ごしていた私には彼の気持ちが分かる。お金持ちになりたいという願いが。それが叶えば、自分は幸せになれると信じていたからだ。
でも、お金では幸せにはなれないと私は知った。裕福でも心から愛していない人と結婚しても心は貧しいままだからだ。それを雑渡さんも経験していた。彼も私も強がってはいるけど、本当は心が空っぽなんだ。それが可哀想で苦しくて泣いた。彼を助けてあげたい。せめて人を愛する喜びを教えたい。私が彼に教わったように。
「雑渡さんはずっと一人なんですか?」
「そうだ。過去を知られることも嫌う」
「それは分かります。分かるけど…」
「でも、そのままでは幸せにはなれない」
「はい」
「だから、君に話した」
「…え?」
「あんな奴だが一応は私の友人だ。雑渡を助けてやってくれないか」
マスターは微笑み、チーズケーキの横にカットされたフルーツを添えてくれた。
私が雑渡さんを助けることができるの?もし、そうなら助けてあげたい。人並みに幸せになる為に人は生きているから。彼に好きな人を作るように促すという意味だろうか、そう思いながら冷めた珈琲を口にすると、マスターが本をくれた。
「あの、これは…?」
「読んでみなさい」
「夏目漱石ですか?」
「ああ。読んで、一度よく考えなさい」
何の話だかさっぱり分からない私は、マスターが手渡してくれた本をしまった。夏目漱石のお弟子さんが書いた本に彼を助ける手掛かりが隠されているのだろうかと、丁寧に本を読んだ。そして、私は自分の愚かさを自覚した。と、同時に胸が苦しいのに嬉しいという不思議な感覚を体験した。
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