珈琲館には来たものの戸を開けることを躊躇っていると、急に戸が開けられた。驚いていると、開けた本人はにっこりと笑って早く中に入るように促してきた。
「どうしたの?寒いでしょうに」
「まあ…」
「照星、珈琲ちょうだい」
「ああ」
マスターは私が好きなブレンドを淹れてくれた。いつものようにケーキ付きで。
それよりも私は、昨日渡されて読んでしまった本のことで頭がいっぱいだった。もしも私が思っていることが本当だとするなら、私は彼に何と言い、どんな顔をすればいいのだろうか。
悩む私の顔を彼は、じっと覗き込んだ。恥ずかしくて顔を反らすとマスターはくすくすと笑って、雑渡さんに言った。
「お前の話を昨日した」
「話?」
「直木賞の件を中心に」
「は…」
「可哀想だと彼女は泣いていたよ」
雑渡さんは目食らったようにパチクリと瞬きをしていたけど、私も同じだった。何がおかしいのか、マスターは笑っていた。当の雑渡さんは悲しそうな顔をして私に微笑んできた。
「ごめんね、昔の、それもつまらない話を」
「い、いえ…」
「そっか、なまえちゃん、知っちゃったのか…」
「すみません…」
「いや、謝る必要はないんだ。ないんだけど、さ…」
ふと雑渡さんは遠い目をした。近付いていた彼が少し私から遠くに行ってしまったような気がして、とても悲しかった。
そんな微妙な空気を察してか、マスターは笑いながら雑渡さんの心を代弁した。
「不安なのさ」
「不安?」
「雑渡が金を持っていることを君に知られてしまって態度が変わらないか、と」
「ちょっと…」
「…雑渡さん、私は何も変わりませんよ?」
「…うん、ありがと」
ふうと安心したように彼は溜め息を吐いたから、雑渡さんが心配していた内容はマスターの言う通りなのかもしれない。変わらない、というより、何故変わるのかが分からない。お金よりも愛情というのは、世間一般には理想論なんだろうか。
雑渡さんは照れたように煙管を口にして頭を掻いた。その仕草がかわいかった。
「そ、そういえば昨日は何かあったんですか?急に帰ってしまいましたけど…」
「あぁ、うん。そのことなんだけどね」
「はい」
「…いや、その話の前に携帯を貸してくれるかな」
「へ?」
「いいから早く」
何事だろうかと思って、雑渡さんに携帯を手渡した。前に渡した時は電源を切って私を彼から遠ざけてくれたんだっけ。あれは嬉しかったなぁと思いながら雑渡さんの手元を見ていると、こんな細い雑渡さんのどこにそんな力があるのやら。彼は私の携帯をポッキリとへし折った。
あまりにも自然な流れでマスターに渡したから、夢なのかとさえ思ったほどだ。
「棄てておいて」
「ん」
「ちょ、えっ!」
「なまえちゃんにはもう必要ないんだ」
「で、でも彼と連絡がとれなくなるし…」
「だから必要ないんだよ、なまえちゃん」
にっこりと笑って雑渡さんは珈琲を飲み始めたし、マスターは楽しそうにレコードを見始めた。私だけが混乱している。
とりあえず飲みなよ、と奨められた珈琲を口に含んだら、ますます現実味を帯びていく。これから私はどうなるんだろう。
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