終わった、と思った。彼と連絡がとれなくなって怒らせることになると思った。婚約者という肩書きから逃れることなど私には到底不可能だ。携帯を壊したからといって、そう簡単に関係は切れない。
青ざめる私とは対照的に、マスターも雑渡さんも晴れ晴れとした顔をしていた。


「あとは引っ越しか」

「だね」

「下手な気を起こすなよ」

「…どうかな。自信ない」

「あのー…」

「あぁ、話を戻そうか」


にこっと微笑む雑渡さんとマスターが話していたことが何のことかも分からないまま、とりあえず彼の意図を聞き出す。
携帯を破壊するなんてまともじゃない。そして、この人はそんな荒っぽいことをするような人じゃなかったはずだ。きっと何か理由がある。それを聞き出そう。


「私はどうしてもなまえちゃんを助けてあげたくて」

「こんなことしても無駄ですよ。あの人とは…」

「いや、実はもう動いてあるんだ。もう解決したよ」

「解決って…?」

「言い方は悪いけど、なまえちゃんの男に会ったよ」

「……!」


雑渡さんが彼に会ってきたということは、きっと私はますます彼に問い沙汰されることになるだろう。人一倍、独占欲の強い人だ。きっと黙って大人しくなんかしていないだろう。それに、雑渡さんには会わせたくなかった。彼といる時は夢を見ていたかった。
何もかもが崩落した。そんな気持ちになる私の表情を見てか、彼は焦り始めた。


「ごめんね。でも、我慢できなくて…」

「いえ…」

「どうしても、なまえちゃんを助けてあげたくて…」

「はあ…」

「無理矢理にだけど、婚約を解消しちゃったんだ」

「はあ…えっ。えっ、婚約を?解消?あの人と?」

「うん。思いの外、あっさりと解約できたよ」


ごそごそと懐から紙切れを取り出した。そこには確かに彼の字で婚約破棄についての条項が記され、判まで押してある。前に私が婚約をしぶった時は絶対に嫌だと言っていたくせに、何故、こんな…。
不安げに雑渡さんを見つめると、恥ずかしそうに顔を伏せて笑われてしまった。


「あの、一体どうやって彼を説得したんですか…?」

「いや、説得というか、金を積んだだけだよ」

「お金を…?」

「所詮、人の心なんて金でいくらでも動くからね」

「…いくら?」

「持ち金全部だから…1億円程だったかな」

「い!1億!?」

「1億で大人しくなるなんて大してなまえちゃんを愛していたとは思えないよね」


いやいや。1億って何。そんな大金を見たこともないし、積まれたら誰でも身をひくでしょう。私なら卒倒するよ。
ますます青ざめる私の手を彼はとって、とても静かな声で、ゆっくりと言った。


「私は君が大切なんだ」

「……っ」

「だから気にしないで」

「でも…」

「元々、あれは私の金ではないようなものだったし。金なんてわずかでいい」

「1億なんて、そんな価値は私には…」

「ねぇ、なまえちゃん。人の価値って何?」

「それは…」

「本当に大切なものは金の他にあるんだよ」


そう言って彼は私の手をゆっくりと離した。とても悲しそうな笑みを浮かべて。彼は私の頬を伝う涙を指で撫でてくれたけど、その指先が冷たくて悲しかった。
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