雑渡さんは元々、とても寂しそうな目をしている人だった。そんなところも、私が惹かれた要因だったのかもしれない。雑渡さんの冷たい指先はゆっくりと頬を撫でていた。本当に指先が触れるだけという表現がピッタリなほど優しい力で。
前に本で読んだ。緊張すると末端が冷えると。だとしたら彼は緊張しているの?途端に顔が熱くなった。月が綺麗と私に言った彼の心が透けるような気がして、私は恥ずかしさから泣きそうになった。助けたことを迷惑だと思っていると捉えたのか、彼は申し訳なさそうに謝った。
「ごめんね。なまえちゃんの気持ちを無視するような真似をして。でもね、私は」
「雑渡さん…」
「うん。何?」
雑渡さんの顔を見る前に、私はマスターの顔を見た。マスターは私がこれから何を言おうとしているのか分かっていた。
「その話なら二人でしろ」
「えっ?何の話?」
「…ええ。出ましょう」
「え。えっ、何?」
私は立ち上がった。雑渡さんの手をそっと握り締めて。それに驚いたのか、彼は私を真ん丸な目でただ呆然と見ていた。
マスターに促されて私たちは店を出た。空には、ぽっかりと月が浮かんでいた。この恋の始まりは何だったんだっけ。近くに用があって大正浪漫通りに来て、古めかしい珈琲屋さんがあるなぁと思って入った。お客さんは一人しかいなかった。ゆっくりと振り向いた男の人は包帯に包まれた顔をくしゃりと崩して優しく微笑んだ。何となく離れた席に座ろうとしたら、彼は私に隣においでよ、と言ってくれた。彼は原稿用紙をカウンターに散りばめて珈琲を飲んでいた。煙管を吸いながら。着ているものは着物で。独特の雰囲気を持っていた彼は私に話しかけることもなく、穏やかな顔をして煙管を吸っていた。そう、初めは会話もしなかった。見た目もそうだけど、彼の纏っている雰囲気に惹かれて彼に私から話しかけた。彼の話し方は、のんびりとしていて時間が穏やかに流れていくような気がした。やがて、私は彼に恋心を抱くようになっていった。それは私にとっては禁忌に近いものだったけど、止められなかった。
そして、彼は私に自由を与えてくれた。
彼のことを私は詳しくは知らないし、彼も私のことを詳しくは知らないだろう。なのに、私のために大金を捨ててくれ、私にとても素敵な言葉を紡いでくれた。月が綺麗ですね、なんて素敵な表現を私は知らなかったけど仮に知っていたとしてもその意味として捉えられなかった。でも、彼にはよく似合う。他人と同じが嫌いだと言った彼らしい表現だと思う。
「ねぇ、なまえちゃん。何って一体、何のこと?」
「浪漫の話です」
「…浪漫の話?照星も知った顔をしていたけど、二人して何を企んでいるの?」
「…あ。マスターに本を返すのを忘れちゃった」
「本?照星から本を借りたのかい?」
「ええ。返すのは明日でいいかな…」
「なまえちゃん」
「ねぇ、雑渡さん」
「うん」
「月が綺麗ですね」
痺れを切らせた雑渡さんに私が紡いだ言葉を聞いて、彼は途端に目を丸くした。やっと彼に自分の想いを伝えられたことが嬉しくて、私は彼の胸に抱き付いた。
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