彼の着物からは独特のにおいがした。薬のにおいだろうか。とても心地がいい。雑渡さんは、道端で突然抱き付いてきた私を抱き返すことはなく、それでいて、突き放すようなこともせず困っていた。そんな彼が愛しくて、そっと彼の身体から離れて、赤くなった顔を覗き込んだ。
「ふふ。照れてます?」
「えーっと、え?え?」
「月が綺麗ですねの意味が分かりました。あれは雑渡さんなりの告白だったんですよね?」
「ああ、うん…」
「素敵な告白ですね」
「…うわぁ」
「どうしたんですか?」
「恥ずかしくて…」
雑渡さんは本当に恥ずかしそうに目を伏せた。恥ずかしいのは私も同じだ。馬鹿だと彼に思われてしまっただろうか。そっと雑渡さんの手を取ると、彼は、はっと顔をあげた。その顔はやっぱり赤くて、戸惑っているようだ。
「…私、もうお金ないよ?今はそんなに本も売れてないし、これからも売れないかもしれないし…」
「私も貧しいです」
「見た目もこんなだから並んで歩くと恥ずかしいし」
「実は私、結構着痩せするんですよ。実は脱いだらお腹がぽよぽよですよ」
「…想像させないでよ」
「気持ち悪くなります?」
「いや…」
彼は溜め息を吐いて、手を握り返してくれた。指先はもう冷たくなかった。少しはにかんで、帰ろうと言ってくれた雑渡さんと、マンションに行く。やっぱり部屋は原稿用紙で散らかっていて、机の上には貯金通帳と印鑑が置かれていた。申し訳なくなって、雑渡さんの顔を窺うように見つめると、彼はふんわりと笑って気にしないでと言ってくれた。
「むしろ、一からやり直せるいい機会になったよ」
「でも、1億なんて…」
「私は大切な人を守るために使えてよかったと思っている。気にしないで」
「…私、働きます」
「この家に住んで私のお手伝い、してくれるかな?」
「そこまでは…」
「私はずっと、なまえちゃんといたいんだ」
頬を優しく彼に撫でられてそんなことを言われてしまっては、私は首を横に振ることはできない。
彼の居所をどうやって突き止めたんだろうかとか、どんな話し合いをしたんだろうとか。聞きたいことはたくさんあったけど、今はそんな話よりも二人で過ごせることを喜び合う方が大切だった。頬を撫でていた指が唇へと滑ってきて、私の胸の高鳴りは最高潮に達した。
「…いいかな?」
「はい…」
「浮気は駄目だよ?」
「しませんよ」
「何年ぶりかな。もうなんて気持ちを忘れていたよ」
恥ずかしそうに微笑んだ顔をもっと見ていたかったけど、彼の顔が近付いてきたから目を閉じた。唇が軽く触れるだけのキスだったけど、それは私が生まれて始めて好きな人とした行為。雑渡さんの顔に巻かれた包帯が私の顔に当たるぐらい近くに彼がいる。それだけで私は間違いなくこの瞬間、世界で一番幸せだろう。
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