雑渡さんの火傷は背中にまで及んでいた。皮膚が変色していたけど、それでも綺麗な身体だと思った。
私の髪をすく雑渡さんは目を伏せていた。


「寝ましょう?」

「眠い?」

「だって、眠そう」

「んーん。ただ…」

「ただ?」

「幸せだなぁ、って」


にこっと穏やかな顔で微笑む雑渡さんは、優しく額にキスしてくれた。初めてではなかったけど、好きな人としたのは初めてのことで、セックスが気持ちいいとも、幸福だとも生まれて初めて感じた。
雑渡さんの胸元に擦り寄って、ぬくもりを感じていると、そっと包み込むように優しく抱き締めてくれた。


「なまえちゃん、明日も珈琲館で仕事だよね?朝も早いことだし、もう寝ようか」

「そうですね。雑渡さん、明日も朝から珈琲館に来られるんですか?」

「いや、明日は都内で打ち合わせなんだよね。一緒に居られなくて寂しいな…」

「家で会えるじゃない」

「ねぇ、なまえちゃん」

「はい。何ですか?」

「ずっと私の側にいて?」

「…はい」


眠る前に触れるだけの優しいキスをしてもらう。そして、抱き合って眠った。幸福だと思った。本当に本当に幸せで、今がずっと続けばいいのにと思った。本気で永遠を願って眠った。
朝6時半。目覚ましが鳴る数分前に目が覚める。これはもう、何年も前からのこと。私はきっと朝に強いのだろう。隣ですやすやと眠る雑渡さんが愛しくなって、そうっと頬にキスをした。


「んー…?」

「おはようございます。いま朝御飯を用意しますね」

「咲花…」

「…咲花?」


幸福な時間が止まった。
それでも、いつものように朝食を用意して、いつものように仕事に行けた。雑渡さんは何事もないように送り出してくれたから、きっと他の女の人と間違えたことに気付いていないんだろう。
珈琲館でいつものように仕事をして、いつも雑渡さんが座っている席を見ては溜め息を吐く私をマスターは笑っていた。きっと雑渡さんが来なくて寂しがっていると思っているんだろう。
仕事を終えて携帯を見ると雑渡さんからメールが届いていた。仕事が終わったら迎えに行くから連絡してという主旨の内容。そうね。私は彼に愛されている。目と鼻の先にあるマンションにぐらい一人で帰れるのに、迎えに来てくれようとしているんだから。
何年もお付き合いをした彼女とほんの数週間お付き合いをした私。きっと、間違えても仕方がないこと。でも、明日の朝も同じことがあったなら?そうしたら私はまた笑って何事もないように過ごすことができるの?答えはノーだった。もう彼とは一緒には住めない。住めないどころか、もう会えないかもしれない。
雑渡さんに、誰よりも愛されたいと願う自分がいた。醜くて、強欲な自分の感情が雑渡さんを好きという感情をはるかに勝っている。


「…マスター」

「どうした?」

「突然で本当に申し訳ないんですが、明日から少しお休みをください」

「それは構わないが…」

「ありがとうございます」


マスターに丁寧に頭を下げてから珈琲館から出る。冷たい風が吹いていた。帰る家はない。あのマンションには私の帰る空間なんて、もうない。一瞬で崩れていってしまった。
時計を見ると、22時過ぎ。電車はまだある。でも、行く宛なんてどこにもない。フラフラと近くのお寺に行くと、こんな時間だからか誰もいなく、静まり返っていた。昼間は観光客で賑わうお寺に小さく丸まって、私は泣いた。
雑渡さんが好き。なのに、どうしてこんなに胸が苦しいの?どうして私はこんなに泣いているの?
しばらくすると知らない人に声をかけられた。そして私は言われるがままにその人に着いていった。電話の震えは止まなかったけど、気付かないふりをして私は一晩、見知らぬ人の家で過ごした。心の中で雑渡さんに別れを告げて。
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