雑渡さんと離れて、いろんなことを考えた。私は逃げていた。傷付くことからも大人になることからも。本当は自分がいけないことをしているのだと分かっていた。雇ってくれたマスター、助けてくれた雑渡さんに不義理をしてしまった。
逃げることは楽だった。何も考えないように日々を送ることは楽しかった。でも、それではいけない。前に進まないと。答えが出たら自然に行動ができる。そうシナさんは私に言った。私がこれから取ろうとしている行動は間違っているのだろうか、なんて今更ながら思う。
マスターは私の横で、何も言わずに立っていた。それがマスターなりの優しさであることは分かっている。もう、私は逃げない。私はマスターに頭を下げて病室の扉をノックした。短い返事を聞いて、涙が出そうになる。雑渡さんだ。
病室に入ると、雑渡さんはベッドの上で必死に原稿用紙に向かっていた。雑渡さんは随分と痩せてしまっていた。細い腕に点滴を打ち、指先を真っ黒にしながら書き続ける雑渡さんは私に気付いていない。顔色の悪い雑渡さんの側に近寄り、そっと彼の名前を呼ぶと、雑渡さんはハッと顔を上げた。そして嬉しそうに微笑んでくれた。


「なまえちゃん…」

「…痩せましたね」

「もう少しで…」

「もう少しで?」

「もう少しで今、書いている話が書き終わるんだ…」

「原稿ですか」

「大丈夫、必ず獲るよ。必ず受賞できるような話を書くから。きっと、賞金を獲れるから。売れるから。だから、戻ってきて…」


震えながら顔を覆う雑渡さんを思わず見る。えっと、賞金って何の話?
随分と細くなった腕にそっと触れると、雑渡さんは衰弱したような顔で私にまた懇願してきた。


「えっと、私があの家に戻る戻らないはともかく、賞金って…何の話ですか?」

「なまえちゃん、私がお金がないから出ていったんでしょう?大丈夫、きっとまた必ず売れるような話を…」

「えっ」

「え?」


驚いた顔をした私を見て、彼はきょとんとした。
もしかして、雑渡さんはお金がないから私が出ていったと思っているの?どうしてそんな…と思ったけど、そういえば前の彼女さんはお金のことで別れたんだっけ、と思い出した。雑渡さんは賞金を得る為に入院するまで必死に書き続けていたんだろうか。ただ、私が戻ってくると信じて。


「…ご飯、ちゃんと食べていました?」

「ううん…」

「寝ていました?」

「あんまり」

「倒れますよ、それは」

「それでなまえちゃんがまた側にいてくれるのなら私はどうなってもいい」


今にも消えそうなぐらい小さな声でそう言う雑渡さんを見て、後悔した。やっぱり逃げてはいけなかった。私があの時、雑渡さんに不安を吐露したら、彼はこんな風にはならなかった。私のせいだ。そう思うだけで私は自分に腹が立った。


「ごめんなさい…」

「何が?」

「違うの。私があの家から出ていった理由は、そんなことじゃないの…」

「…私のこと、嫌いになった?一緒にはいられないぐらい、私のことが…」

「違うっ。私はもっと雑渡さんに愛されたかったの。私、雑渡さんの特別になりたかっただけなの…っ」

「…なまえちゃん?」

「ねぇ、雑渡さん…」

「うん」

「咲花って誰ですか?」

「えっ」

「寝言で、咲花って…」

「…言っちゃった?」


気まずそうに雑渡さんはうつむいた。大きな溜め息を吐きながら、目を伏せて。雑渡さんの言葉を聞きたくなくて逃げ出したくなったけど、両手を握り締めて私はその場にとどまった。
時間は18時過ぎ。病院の面会時間の終わりが刻一刻と迫ってきている。空はどんよりとした闇に包まれ始めていた。
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