意を決して雑渡さんの言葉を促した。咲花とは誰なのか、それを受け入れなければならない。
雑渡さんも意を決したような顔をして書いていた原稿用紙を一枚見せてくれた。
「…雑渡さんが昔、お付き合いしていた人を小説に書いているんですか?」
「お付き合いしていた人?何のこと?」
「咲花って…」
「私が書いている小説の登場人物。そっかぁ、寝言で言っちゃったか…」
職業病かな、と雑渡さんは恥ずかしそうに笑って原稿用紙をしまった。
「…本当ですか?」
「うん?」
「前の彼女なんじゃ…」
「まさか」
「…あ、穴があったら入りたい。ごめんさない…」
恥ずかしい。勝手に勘違いして、勝手に出ていって、たくさん心配かけて、雑渡さんを倒れさせた。やっぱり逃げてはいけなかったんだと嫌というほど再認識した。
「もしかして、私が前に付き合っていたこの子とを気にしているの?」
「…はい」
「嫉妬してくれた?」
「…いけませんか?」
「いや。かわいいよ」
「馬鹿にしてぇ…っ」
「でも、よかった」
「何がです?」
「なまえちゃんに嫌われたわけじゃなくてよかった。本当によかった」
にっこり笑った雑渡さんは私の頭を優しく撫でてくれた。いつものあの笑顔で。
そして、たくさん聞かせてくれた。前の彼女さんのこと。同じ会社で、一緒に辞めて、どんな風に過ごしたのか。
「結果的に辛い思い出になったけど、楽しかったことも確かにあったよ」
「はい…」
「でも、なまえちゃんは、あいつとは違うよ」
「違うって?」
「なまえちゃんがいなくなって、夢中で探した。誰かの為にあんなに必死になったのは生まれて初めてだよ」
「そんなに…?」
「うん。あぁ、そういえばなまえちゃんの元婚約者のところにも行ったよ。実は、あの男は私が前に勤めていた会社の取引先でね。すごくペコペコしてた」
「初耳なんですけど…」
「わざわざ言う必要もないと思って。いくら金を積まれても、愛があれば大切な人を手離したりはしないはずだけどねぇ…」
「ふぅん…」
「あ、照れてる」
ぷいっと顔をそらすと、雑渡さんは笑った。あまりに笑うものだから、思わず拗ねて彼を小突く。痩せた顔に少しだけ精気が戻ったような気がした。
「盛り上がっているところ悪いが、そろそろ面会時間が終わる。店に戻らなくていいのか」
「あっ」
「店?」
「山元シナの店だ」
「えっ。シナさんをご存知なんですか?」
「ああ。元同僚だ」
「マスターの元同僚…?」
「…なまえちゃん、その店には戻らなくていい。ずっと私の側にいてよ」
「でも、戻らないとシナさんに迷惑かけちゃうし…」
シナさんのお店はかなり繁盛していた。毎日常連のお客さんがたくさん来て、私の顔や名前も覚えてくれた人がいる程。大人の女性の魅力がシナさんにはある。落ち着いていて上品で、博識で優しくて料理も上手で、美人で。ああいう女性になりたい、と雑渡さんに言うと、雑渡さんは顔を曇らせた。
「雑渡さん?」
「前に雑渡が昔の女に捨てられた話をしたな。覚えているか?」
「はい」
「それが山元だ」
「えっ…!?」
「照星!」
「どの道、いずれバレる」
雑渡さんは顔を歪ませて、目を伏せた。
その仕草でマスターの話が本当であると分かる。あのシナさんが?そんな風には見えなかった。
「人違いじゃ…」
「ない」
「…なまえちゃん、あいつの店には戻らなくていい。あいつに近付かないで」
雑渡さんは顔を強張らせた。まだ雑渡さんの心にはシナさんがいる。それほどシナさんと雑渡さんの関係が深いということだ。透き通っていたはずの心に影がさす。ドロドロとした醜い感情がまた暴れる。
でも、もう逃げない。
私は雑渡さんの手を握った。細い指は湿っていた。
「私、戻ります」
「なまえちゃん!」
「雑渡さん、明日シナさんを連れてここに来ます」
「いい!会いたくない!」
「あら。随分な言い草ね」
「………!」
振り返るとシナさんがいた。
私はもう逃げない。嫉妬心からも雑渡さんの過去からも逃げないで受け入れる。雑渡さんとシナさんが再会したことで再び二人の時間が動き出したとしても、それは雑渡さんとシナさんにとっていいことだと心から思えた。そのぐらい雑渡さんもシナさんも私にとって大切な人なのだ。
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